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創価学会『ニセ本尊破折百問百答 
 平成五年十月一日、創価学会は、離脱僧・成田宣道からの申し出によるとして、栃木県・淨圓寺所蔵の日蓮正宗総本山大石寺第二十六世日寛上人御書写の御本尊を、勝手に複写し、配布しはじめた。 本書は、創価学会の『ニセ本尊』とその邪義を徹底的に破折し、日蓮正宗の本尊義を明らかにした法華講員必読の書である。 

創価学会『ニセ本尊破折目次
第一章 日蓮正宗の本尊
第二章 創価学会の本尊観

第三章 「ニセ本尊」について

第四章 日蓮正宗の信仰

第五章 創価学会の信仰観

第六章 血脈について

第七章 御本尊の書写・授与について

第八章 法主上人の允可、開眼について

第九章 御授戒について

第十章 昭和五十二年路線と本尊模刻事件について

第十一章 文証の検討


    
第一章 日蓮正宗の本尊
  1. 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。
  2. 日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。
  3. 「人法一箇」とはどういうことですか。
  4. 「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。
  5. 「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。
  6. 戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。
  7. 学会版の経本で抹消した二座の観念文のうち、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の意味を教えてください。

    第二章創価学会の本尊観
  8. 創価学会の本尊観は昔から一貫して変わらないのでしょうか。
  9. 「御本尊は幸福製造機」という考えは正しいのでしょうか。
  10. 池田大作氏は「もはや本尊はどれも同じ」といっていますが、正しいのでしょうか。
  11. 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
  12. 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。
  13. 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ−チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。
  14. 学会では〃宗教的権威は不要、信心は御本尊対自分である〃ということを強調しますが、このような考えは正しいのですか。
  15. 現在、創価学会では「総本山へ参詣しなくてもよい」と指導していますが、戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否して、家庭の御本尊を拝むだけで功徳はありますか。
  16. 日蓮正宗において、戒壇の大御本尊を離れた「御本尊根本」という考えは成り立ちますか。
  17. 「世間でも太陽を崇める宗教や富士山を敬う宗教がいくつもあるように、日蓮正宗を離れても本門戒壇の御本尊を根本として信仰することは少しもおかしいことではない」という考えは正しいのでしょうか。
  18. 「御本尊根本」であるならば、正しい信仰といえるのでしょうか。

    「ニセ本尊」について
  19. なぜ学会で授与する本尊が「ニセ本尊」なのですか。
  20. 総本山第二十六世日寛上人の御本尊を「ニセ本尊」と呼ぶのは日寛上人に対する冒涜ではありませんか。
  21. 日寛上人の御本尊を複写したものを、なぜ宗門では「日寛上人の本尊ではない」「日寛上人のお心にそむく大謗法」というのですか。
  22. 学会では「宗門が御本尊を下付してくれないので、やむをえず複写して授与することになった」といっていますが、本当ですか。
  23. 拝む人に「信力」「行力」があれば、複写本尊でも「仏力」「法力」を発現する、という主張は正しいのですか。
  24. 「ニセ本尊」を拝むとどうなるのですか。
  25. 「『ニセ本尊』に功徳がない」ということは、学会員が拝んでいる従来の御本尊には功徳があるということですか。

    日蓮正宗の信仰
  26. 日蓮正宗の「信仰」とは何ですか。
  27. 「広宣流布」の本当の意味は何ですか。
  28. 「令法久住」と「広宣流布」とはどのような関係にあるのですか。
  29. 学会では「宗門は法主信仰だ」といっていますが本当ですか。

    創価学会の信仰観
  30. 秋谷会長が「学会は『御書根本』として進んできた」と指導していますが、「御書根本」という考えは正しいのですか。
  31. 学会でいう「大聖人直結」は、正しいことなのですか。
  32. 学会でいう「人間主義」は、どこが間違っているのですか。
  33. 池田氏がいう「大宇宙の生命のリズムと小宇宙である自分が合致するために唱題をする」という考え方は正しいのですか。
  34. 「信心の血脈さえあればよい」という学会の指導は正しいのですか。
  35. 学会では「現在の宗門は狂っているから、宗門に従っても功徳はない」といっていますが本当でしょうか。
  36. 学会には、「池田名誉会長が『世界の指導者』として世界各国から称賛されることが広宣流布につながる」という考えがありますが、これは正しい考えでしょうか。
  37. 学会員は「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」と指導されますが、これは正しい指導なのでしょうか。
  38. 学会では“先生と自分との関係を忘れない信心こそ功徳がある”との指導をしていますがこの考えは正しいのですか。
  39. 「学会員が増えることが広宣流布」ということは正しいのですか。
  40. 学会は「創立以来、一貫した信心」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、はたしてそうでしょうか

    血脈について
  41. 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。
  42. 唯授一人の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。
  43. 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
  44. 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。
  45. 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。
  46. 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
  47. 学会では、「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
  48. 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。

    御本尊の書写・授与について
  49. 御本尊の「書写」とはどういうことですか。
  50. 学会では「従来、法主の権能とされてきた御本尊書写などは、実際は単なる『役割』にすぎない」といっていますが、本当でしょうか。
  51. 御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。
  52. 御隠尊猊下が御本尊を書写されることはあるのですか。
  53. 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。
  54. 御本尊に関する「書写」「授与」「允可」の権能は、どのような関係にあるのですか。
  55. 『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。
  56. 学会では、『百六箇抄』の「上行已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」の御文を、後人が勝手に書き加えたもので、大聖人の御書ではないといっていますが、それは本当ですか。
  57. 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。
  58. 現在も末寺で御本尊を下付されますが、末寺の僧侶にも御本尊下付の権限があるのですか。
  59. 過去には学会の会館で御本尊を授与したことがありましたが、在家信徒にも授与の権能があるのですか。
  60. 「御本尊の偉大なる功徳を実証した者」には御本尊を授与する資格があるのですか。
  61. 御本尊を授与する場合は、総本山の許可が絶対に必要なのですか。

    法主上人の允可、開眼について
  62. 「允可」とは、どういう意味ですか。
  63. 「開眼」とはどういうことですか。
  64. 末寺で下付されてきた御本尊は、御法主上人が開眼されたものなのですか。
  65. 学会では「本尊の開眼などは僧侶の権威を高めるための儀式、実際には無用のもの」と指導していますが、どうでしょうか。
  66. 聖教新聞には「拝する側の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力は発現する。これが本来の開眼の意義である」(五・九・二〇付)といってお りますが、これは正しい考え方でしょうか。
  67. 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。
  68. 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。
  69. 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。
  70. 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。
  71. 学会では、「一機一縁」とは大聖人の直筆御本尊に限られるもので、今回下付するのは日寛上人が「一閻浮提総与」の御本尊を書写されたものだから問題ないといっていますが、本当ですか。
  72. 創価学会の『ニセ御本尊』は、日寛上人の享保五年六月十三日御書写の御本尊に書かれていた「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」という「授与書き」を抹消していますが、このような変造は許されることなのでしょうか。
  73. 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四郎国重」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。
  74. 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に適った教団なのですか。
  75. 「御本尊根本の信心」や「広布を目指す信心」があれば、誰が本尊を複製してもよいのですか。
  76. 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。
  77. 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。

    御授戒について
  78. 日蓮正宗の授戒にはどのような意義があるのでしょうか。
  79. 「受持即持戒」という仏法の本義に立てば、従来の御授戒の儀式は必要ないものになるのですか。
  80. 『十法界明因果抄』に「爾前経の如く師に随ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり」(新編 216頁、全集 四三七頁)とありますが、これは授戒の儀式を不要とする文証ではありませんか。
  81. 学会では「御授戒の儀式は、昭和十二年ごろ牧口会長が宗門に依頼して始められたもので、古来不変の伝統などはない」といっていますが、本当でしょうか。

    昭和五十二年路線と本尊模刻事件

  82. 「昭和五十二年路線」とはどういうことですか。
  83. 「本尊模刻事件」について簡単に説明してください。
  84. 「お守り御本尊」を模刻することはあるのですか。
  85. 模刻作業に携わった赤沢朝陽の社長は、昭和四十九年秋ごろに「日達上人は数体の御本尊の模刻を承知されていた」(聖教新聞 五・九・三〇)といっていますが、どうでしょうか。
  86. なぜ、学会は本尊を模刻したのですか。
  87. 学会では、当時の宗門と学会との連絡協議会を記録した「藤本メモ」に、本尊模刻について宗門側が承諾した旨、明記してあると主張していますが、いかがですか。
  88. 「正信会裁判」の証人尋問で藤本総監は、本尊模刻について「これは謗法ではない」と証言されたそうですが、本当ですか。
  89. 昭和五十三年十月三日付の「院達」(宗務院からの通達)に「今後は創価学会の板御本尊に関しては、一切論議を禁止する」とありますが、今になって模刻問題を持ち出すのは御先師日達上人に背くことではありませんか。
  90. 学会では、模刻本尊を総本山に納めたのは、「日達上人と僧俗和合を守りたい」という宗門側の願い出があったため、と説明していますが、本当ですか。

    第十一章文証の検討
  91. 「相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此れより外に全く求ることなかれ」(生死一大事血脈抄・新編 515頁、全集 一三三八頁)
  92. 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(生死一大事血脈抄・新編 515頁、全集 一三三八頁)
  93. 「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」 (日女御前御返事・新編 1388頁、全集 一二四四頁)
  94. 「当に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(観心本尊抄・新編 661頁、全集 二五四頁)
  95. 「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり」(有師化儀抄・富要 一−六四頁)
  96. 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 一−一七六頁)
  97. 「信心に依りて御本仏より法水を受く、其の法水の本仏より信者に通ふ」(有師化儀抄註解・富要 一−一七六頁)
  98. 「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり『其の人所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕すなり。当に知るべし。並びに題目の力用に由るべきなり」(当体義抄文段・富要 四−四〇〇頁)
  99. 「仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異ならず」(観心本尊抄文段・富要 四−二三六頁)
  100. 「此れを以て考えますと将来の歴史家に立宗七百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通広布の時代と定義するであろうと思います(中略)七百年の歴史は一に広宣流布を待望しつつ堅く護持してきた時代と申すべきでありましょう。しかし末法に入って千年のうち、はやくも九百年は過ぎました。もとより末法は千年に区切ることはありませんがともかく千年の終りに近づいて開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯ならないものがあると思います。(淳全 一六二〇頁)
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 第一章 日蓮正宗の本尊


 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰(き)命(みょう)依止(えし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に
 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年大歳己卯なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編 1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に
 「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」(新編 1883頁)
と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は
 「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 4−221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

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  日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

 日蓮大聖人は、末法のすべての民衆を救済するために御本尊を顕わされました。
 『観心本尊抄』に
 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(新編 662頁)
と仰せです。
 日蓮大聖人は、末法の時代に出現され、御本仏としての化導のうえから、末法適時の大法を弘められ、全世界の民衆に即身成仏の大利益を得せしめんがために、「本門戒壇の大御本尊」を顕わされました。
 日寛上人は、『文底秘沈抄』に
 「本尊とは所縁の境なり」(聖典 833頁)
と示され、妙楽大師の「正境に縁すれば功徳猶(な)お多し、若し正境に非ざれば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無けれども亦種と成らず」の文を引用して、正境すなわち正しい本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると指南されています。
 『報恩抄』に
 「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(新編 1036頁)
と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲が御本尊として顕わされ、一切衆生の成仏道が開かれたのです。

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  「人法一箇」とはどういうことですか。

 「人法一箇」とは、日蓮大聖人の顕わされた大御本尊は、人・法の名称は異っても、その体は同じであるということです。
 「人」とは、人の本尊たる御本仏日蓮大聖人のことであり、「法」とは、法の本尊たる事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』において、三大秘法の「本門の本尊」を、人・法の二つに開かれ、人本尊は
 「久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因(ほんにん)妙(みょう)の教主、大慈大悲の南無日蓮大聖人」(聖典 838頁)
であり、法本尊は
 「事の一念三千無作(むさ)本(ほん)有(ぬ)南無妙法蓮華経の御本尊」(聖典 834頁)
であると指南されています。
 この人・法の本尊は、
 「人即是れ法、自受用身即一念三千なり、法即是れ人、一念三千即自受用身なり」(聖典 843頁)
と指南されているように、人法一体の御本尊なのです。
 『御義口伝』にも
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せられ、この御本尊が大聖人の当体そのものであると教示されています。
 したがって大聖人を離れて南無妙法蓮華経はなく、南無妙法蓮華経を離れて御本仏日蓮大聖人はないのです。

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  「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

 本門の戒壇に御安置すべき究竟の御本尊≠ニいう意味です。
 宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐(ほんがい)たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書(わきが)きがしたためられています。
 この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、
 「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処」(聖典 849頁)、
 「事の戒壇とは一閻浮提の人、懺悔滅罪の処なり云云」(同頁)
と指南されています。
 すなわち、「義の戒壇」とは各家庭も含めた本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、
 「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(新編 1675頁)
と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日に御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

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  「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。

 「一閻(いちえん)浮(ぶ)提(だい)総与の御本尊」とは「一閻浮提(全世界)のすべての人々が信受すべき御本尊」との意味で、本門戒壇の大御本尊のことを指します。
 『観心本尊抄』に
 「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮(えんぶ)の衆生に授与せしめたまふ」(新編 657頁)
と仰せのように、御本仏宗祖日蓮大聖人は、末法万年にわたり、全世界の人々を救済するために、自らが御所持の寿量文底の南無妙法蓮華経を顕わされました。
 そして、南無妙法蓮華経の法体として、「本門戒壇の大御本尊」を図顕されました。
 全世界の人々が真実の平和と幸福を確立するためには本門戒壇の大御本尊を信仰すべきであり、その戒壇に参詣すべきことを『三大秘法抄』に
 「三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」 (新編 1595頁)
と仰せられています。
 このように、全世界の民衆を救済するために顕わされた大御本尊であり、全世界の民衆がおしなべて参詣帰依すべき大御本尊という意味から「一閻浮提総与の大御本尊」と申し上げます。

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  戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。

 「本門戒壇の大御本尊」は、根本となる究極の御本尊であり、「各家庭の御本尊」は、御本仏日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと、大聖人の御内証(ないしょう)の法体(ほったい)を唯授一人血脈相伝される御歴代上人が、根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して下付される御本尊です。
 総本山第五十六世日応上人が『弁惑観心抄』に
 「此の金口(こんく)の血脈こそ宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり、これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)
と指南されているように、代々の御法主上人に伝えられる血脈相承によって、はじめて本門戒壇の大御本尊の法魂・極意(ごくい)が書写されるのです。したがって血脈相伝の教えに信順し、本門戒壇の大御本尊を信ずる一念をもって拝むならば、書写された御本尊もその功徳に変わりはありません。
 しかし信仰が戒壇の大御本尊から離れ、血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません。かえって罪障を積むことになるのです。

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  学会版の経本で抹消した二座の観念文のうち、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の意味を教えてください。

 「久遠元初」とは、単なる時間的な「宇宙の最初」という意味ではなく、実には一切の現象の究極・根本という意味で、時間・空間を超絶した絶対的な状態をいいます。
 また、「自受用報身如来」について説明しますと、まず仏教において仏という場合、法界の一切の真理としての法身(ほっしん)如来、その真理を照らす智慧身たる報身(ほうしん)如来、大慈悲によって一切衆生を救済する応身(おうじん)如来の三つの側面があります。
 この三身如来の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身、応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」といいます。
 すなわち「久遠元初の自受用報身如来」とは、「絶対的な究極の仏」ということです。『御義口伝』には「自受用報身」を「ほしいままにうけもちいるみ」(新編 1772頁)と解説されています。
 この久遠元初の自受用報身如来こそ「末法の法華経の行者」たる日蓮大聖人であり、そのお悟りの当体そのままを、本門戒壇の大御本尊として建立されたのです。

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第二章 創価学会の本尊観



  創価学会の本尊観は昔から一貫して変わらないのでしょうか。

 かつて創価学会では、
 「この本門戒壇の大御本尊を根本として、血脈付法の歴代の御法主上人が大御本尊を御書写になり、御下附くださったのが、私達の家家に御安置申し上げている御本尊です」 (大白蓮華 345ー36頁)
と述べていたように、血脈付法の御歴代上人を通じて本門戒壇の大御本尊に帰依するという本宗本来の正しい本尊観をもっていました。
 ところが、現在は、「大聖人直結」といい、「代々の法主に伝わる特別な相承などない」といって、経本の観念文から御歴代上人に対する報恩謝徳の御文を削除し、
 「本尊は我々の信心の中にある」
とか
 「我々の信力・行力によって仏力・法力は完結する」
 「大石寺の御本尊にお目通りしなくてもよい」
などといい出しています。
 このように創価学会は、信仰の根本たる戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を否定した本尊観に大きく変わっており、現今の創価学会の説が本宗の教えに背く邪義であることはいうまでもありません。

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  「御本尊は幸福製造機」という考えは正しいのでしょうか。

 御本尊は、「幸福製造機」などという「単なる機械」「単なる物」ではありません。
 日蓮正宗の御本尊は、
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
とも
 「即ち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり」 (聖典 380頁)
と説かれるように、生きた日蓮大聖人そのままの御当体なのです。大慈悲を具えた生きた仏様だからこそ私たちは御報恩謝徳申し上げるのです。
 日寛上人が、『観心本尊抄文段』に
 「則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり」(富要 4−213頁)
と仰せのように、御本尊の功徳は無量無辺です。
 しかし、そのためには「正しい本尊」を信じなければなりません。『同文段』に
 「この本尊に人あり法あり(中略)法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊(こと)なれども、その体は恒(つね)に一なり」(同頁)
と説かれるように、宗祖大聖人の御当体たる御本尊を信受することが大切なのです。
 創価学会では以前から「御本尊は幸福製造機」といっていましたが、宗門においては、これを一般信徒に御本尊の功徳を説明するための方便としてうけとめてきました。
 しかし現在、創価学会は
 「御本尊といっても物体にすぎない」 (池田スピーチH五・五・三 取意)
という誤った考えに陥っています。御本尊を単なる機械と見る考え方は大謗法であり、根本から改めなければなりません。

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 10 池田大作氏は「もはや本尊はどれも同じ」といっていますが、正しいのでしょうか。

池田氏は本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊を混同し、会員の心を本門戒壇の大御本尊から離れさせようと企てているのです。
 御本仏日蓮大聖人が出世の本懐(ほんがい)として、弘安二年十月十二日に御図顕された人法一箇の「本門戒壇の大御本尊」が本宗の根本の御本尊です。
 これに対して、各家庭や各人に下付される御本尊は、その根源の本門戒壇の大御本尊の御内証(ないしょう)を、唯授一人血脈付法の御法主上人が、その権能において書写され、本宗僧俗に下付されるのです。
 したがって、本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊は、もとより能開(のうかい)と所開(しょかい)の関係にあることを知らなければなりません。
 かつて創価学会では「私どもが留意すべき点について申し上げます。それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません」(特別学習会テキスト 五六頁)と指導していました。
 大聖人は『題目(だいもく)弥陀(みだ)名号勝(みょうごうしょう)劣事(れつじ)』に、
 「能開所開を弁(わきま)へずして物知りがほ(顔)に申し侍るなり」 (新編 332頁 取意)
と仰せですが、現在の池田氏率(ひき)いる創価学会は、まさに大聖人のこの厳しい責めをこうむる大謗法を犯しているのです。

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 11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。

 創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
 そのために学会では、『日女御前御返事』の
 「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(新編 1388頁)
の御文を利用しています。
 昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
 「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 2−5−600頁)
と破折されています。
 胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。

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 12 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。

 これは池田大作氏が『日女御前御返事』の
 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(新編 1388頁)
の御文を勝手に解釈したものです。
 池田氏は、さらに日寛上人の御文を悪用して「御本尊といっても大切なのは信心である」(池田スピ−チ H五・九・七)と主張していますが、これは御本尊よりも自分達の信心を中心と考える本末転倒(ほんまつてんとう)の己義からくる邪説です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』に
 「境能(よ)く智を発し、智亦(また)行を導く故に、境若(も)し正しからざれば則ち智行も亦随って正しからず」(聖典 833頁)
と説かれています。
 すなわち対境の御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、信心(智)によって修行(行)が導き出されるゆえに、もし対境の御本尊が正しくなければ、信心も修行も正しいものではないのです。
 池田氏の「御本尊といっても大切なのは信心」との発言は、凡夫の信心を中心にして本門戒壇の大御本尊をないがしろにするものであり、根拠のない邪説です。

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 13 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ−チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。

 これは池田大作氏の我見であって、大聖人の教義ではありません。これはむしろ外道の思想です。
 『御義口伝』に
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せのように、漫荼羅(本尊)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はないのです。
 しかし池田氏は、妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいるようです。このような考えについて、日淳上人は次のように破折されています。
 「南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満(へんまん)する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身(大聖人)であります(中略)妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には仏(大聖人)の御智慧のうちにのみ、厳然として具はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在(まし)ますだけであります」 (淳全 982頁)
 このように、人(大聖人)を離れて法(南無妙法蓮華経)はなく、大聖人はそのまま南無妙法蓮華経の御当体なのです。ゆえに池田氏の考え方は全くの我見であり、正しい考え方ではありません。

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 14 学会では宗教的権威は不要、信心は御本尊対自分である≠ニいうことを強調しますが、このような考えは正しいのですか。

 かつて池田大作氏は、
 「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶(しゃびょう)の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 8−228頁)
と指導しています。
 しかし近年、創価学会が日蓮正宗と離れても会員が不審を抱かないように「御本尊を拝んでいれば、他の宗教的権威は不要」と指導してきました。
 さらにそのうえ、純真な会員に対して「御本尊対自分」という指導を徹底し、日蓮正宗本来の法義・伝統に対する信仰心を低下させ、我見と慢心を増長させてきたのです。
 日蓮大聖人は『曽谷殿御返事』に
 「返す返すも本従(ほんじゅう)たがへずして成仏せしめ給ふべし」(新編 1040頁)
と仰せられ、仏道を成就するためには師弟の道を全うしなければならないと説かれています。私たちにとって本従の師に至るには総貫首たる御法主上人の御指南に随順しなければなりません。
 創価学会はこの仏法本来の師弟の道を「宗教的権威」と蔑称(べっしょう)して否定してきたのです。この悪意に満ちた指導の延長線上で「御本尊対自分」という、もっともらしい指導がなされていることを知らなければなりません。

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 15 現在、創価学会では「総本山へ参詣しなくてもよい」と指導していますが、戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否して、家庭の御本尊を拝むだけで功徳はありますか。

 本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません。
 『寿量品』に
 「心に恋慕(れんぼ)を懐(いだ)き、仏を渇仰(かつごう)して」(開結 434頁)
とあるように、私たちにとって仏を恋慕渇仰する信心が大切なのです。九十歳の阿仏房が決死の覚悟で登山したのも、日妙(にちみょう)尼(に)が苦労をしながら大聖人のもとへ参詣したのも、すべて御本仏大聖人を恋慕渇仰する信心によるものです。
 現時において、日蓮大聖人は人法一箇の大御本尊として、大石寺奉安堂にいらっしゃるのです。
 日寛上人は『寿量品談義』に
 「志(こころざし)有らん人は登山して拝したまへ」(富要 10−131頁)と仰せられ、信心があるならば、登山して大御本尊にお目通りせよと教示されています。
かつて学会でも、小樽問答で邪宗日蓮宗に対し
 「『かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき』と。霊山浄土は大聖人の御本懐(ほんがい)である本門戒壇の大御本尊のおわす富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか」(小樽問答誌 七九頁)
と破折したではありませんか。
これらのことを思えば、現在の創価学会が会員に対して、大聖人即大御本尊へのお目通りをしないよう指導していることは実に罪深い悪業というべきです。

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 16 日蓮正宗において、戒壇の大御本尊を離れた「御本尊根本」という考えは成り立ちますか。

 本門戒壇の大御本尊を離れては、日蓮正宗の信仰そのものが成り立ちません。
 なぜなら、日蓮正宗における信仰の対境は本門戒壇の大御本尊に限られるからです。
 したがって、大聖人の仏法において、大御本尊から離れて「御本尊根本」の信仰をするなどはありえないことであり、このような主張は、各人に下付された御本尊が本門戒壇の大御本尊の御内証(ないしょう)を書写されたものであることを知らない人の言葉にすぎません。
 ここにわかりやすい譬えがありますので、紹介しましょう。
 「電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」 
これは、ご存じ、創価学会で発行した『折伏教典』(三三九頁)の一文です。
 大聖人が『聖人御難事』に
 「余は二十七年なり」(新編 1396頁)
と仰せられた、出世の本懐(ほんがい)たる本門戒壇の大御本尊を離れることは、御本仏日蓮大聖人から離れ、下種三宝(さんぼう)のすべてを否定する大謗法なのです。
 まして、今日の創価学会では、電球(本尊)までニセ物を作ってしまったのですから、そのニセ物には、光(功徳)の出ることなど絶対にありえません。

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 17 世間でも太陽を崇める宗教や富士山を敬う宗教がいくつもあるように、日蓮正宗を離れても本門戒壇の御本尊を根本として信仰することは少しもおかしいことではない≠ニいう考えは正しいのでしょうか。

 日蓮正宗を離れては広宣流布も一生成仏もありません。
 日蓮正宗は大聖人の教えを今日まで正しく継承し、実践するただ一つの教団であり、大聖人の教えを守るとともに、これを生活の中に展開して、実際に一切衆生の救済に努めてきました。
 その根源はなんといっても、本門戒壇の大御本尊を法義・信仰の中心としてきたからにほかなりません。
 この戒壇の大御本尊は富士大石寺に御安置されており、この大御本尊の極意(ごくい)は大石寺代々の御法主上人に伝えられています。
 したがって戒壇の大御本尊と血脈相承の具わった日蓮正宗の信仰によって、はじめて成仏を遂げることができるのです。
 大石寺を離れ、日蓮正宗から離れて、いかに「御本尊根本」などといっても、決して大聖人の御精神にかなうものではありません。

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 18 「御本尊根本」であるならば、正しい信仰といえるのでしょうか。

 真実の「御本尊根本」とは、宗祖日蓮大聖人の教義を正しく守り、血脈付法の御法主上人の御指南のもとに、本門戒壇の大御本尊を唯一無二に信ずることです。
 しかし現在の創価学会でいう「御本尊根本」とは、御歴代上人に伝わる血脈相承を否定するためにいい出した言葉なのです。
 かつて創価学会は『折伏教典』に
 「富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない」(同書 三四〇頁)
と解説し、たとえ日蓮大聖人の御真筆漫荼羅であっても富士大石寺の血脈から離れたものには大聖人の心は宿らないといっていました。
 ところが現在は「もはや御本尊はどれも同じ」といい、富士大石寺の本門戒壇の大御本尊を軽視する邪説を唱えています。
 「御本尊根本」というと聞こえはよいのですが、この言葉を使用する創価学会の意図は実に邪悪なものなのです。

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第三章 『ニセ本尊』について



 19 なぜ学会で授与する本尊が「ニセ本尊」なのですか。

 たとえば、精巧(せいこう)なカラーコピーの機械で、紙幣(しへい)をコピーして「お札」を作製するとします。いかに本物の「お札」と見分けがつかなくても、そのコピー札は「ニセ札」であり、それを使えば法的に罰せられます。
 なぜかといえば、
  @正式な政府の許可がなく、
  A日本銀行から発行されたものでなく、
  B自分で勝手に作ったものだからです。
 「ニセ本尊」はこれと全く同じ道理です。
  @御法主上人の許可を受けず、
  A総本山から下付されたものではなく、
  B学会が勝手に作製したものだからです。 
 学会では「自分たちが和合僧団だから、その資格がある」と主張しますが、一体その資格は、どなたから受けたのでしょうか。御歴代上人の中で、創価学会に相承された方などおられません。もし「広布を願う一念があれば資格が具わる」などというのならば、誰でもいつでも勝手に本尊を作ることができることになり、大聖人の仏法は混乱し、滅亡してしまうでしょう。
 ニセ札は法律で罰せられますが、「ニセ本尊」は仏法破壊の大罪として、必ず現罰をこうむるのです。

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 20 総本山第二十六世日寛上人の御本尊を「ニセ本尊」と呼ぶのは日寛上人に対する冒涜(ぼうとく)ではありませんか。

 宗門では、浄圓寺所蔵の本證坊(ほんしょうぼう)個人に下付された日寛上人御書写の真正の御本尊を「ニセ本尊」といっているのではありません。
 御法主上人の許可なく、勝手に複製されたものを、私たちは「ニセ本尊」と呼んでいるのです。
 そのうえ、創価学会は日寛上人の御本尊にしたためられていた「授与書き」を勝手に削り、会員に販売しているのですから、学会が日寛上人のお心に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪を犯しているのは明白です。
 これこそまさに、日寛上人に対する冒涜以外の何ものでもありません。

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 21 日寛上人の御本尊を複写したものを、なぜ宗門では「日寛上人の本尊ではない」「日寛上人のお心にそむく大謗法」というのですか。

 宗門でいう「日寛上人の御本尊」とは、
 「日蓮がたまし(魂)ひをすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ」(新編 685頁)
と仰せの、大聖人の「たましい」が、血脈相承のうえから、正しく写されている御本尊のことです。
 しかし、今回学会が勝手に複写して作ったものは、姿・形は日寛上人の御真筆とそっくりであっても、血脈付法の御法主上人の許可がないので、大聖人の「たましい」が写されておらず、「日寛上人の御本尊」とはいえないしろものです。
 たとえば自分で勝手に御本尊を写真に撮って、それを拝むのと全く同じことであり、大謗法なのです。
 また、学会では日寛上人の御真筆御本尊にしたためられていた「大行阿闍梨本證坊日證」という授与書きを勝手に抹消し、変造しており、これが「日寛上人のお心にそむく大謗法」になるのは当然です。

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 22 学会では「宗門が御本尊を下付してくれないので、やむをえず複写して授与することになった」といっていますが、本当ですか。

 この問いでは「なぜ宗門が下付しないのか」を知ることが大切でしょう。
 日蓮正宗は、大聖人、日興上人以来の化儀・化法を守り、正しく信仰する人々に対しては、いかなる人であっても御本尊を下付してきました。
 これは創価学会に対しても同様です。
 ところが学会は、次第に正宗信徒の道から外れ、宗門からのたび重なる教導に対しても、それを受け入れないのみならず、仏法僧の三宝を破壊する大謗法団体と化してしまったのです。
 換言(かんげん)すれば、本宗の信徒団体としての資格を自ら放棄してしまったのですから、団体破門となり、そのために会員に対する御本尊下付もされなくなったのです。
 一時は広宣流布を目指すように見えた学会でしたが、その本性は日蓮正宗信徒とはかけ離れた、御法主上人誹謗、三宝破壊を平気で行なう池田教だったのですから、御本尊下付の停止は当然の処置です。

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 23 拝む人に「信力」「行力」があれば、複写本尊でも「仏力」「法力」を発現する、という主張は正しいのですか。

 これは、本末転倒であり増上慢(ぞうじょうまん)の考えです。
仏力・法力・信力・行力は四力といいます。その関係について、日寛上人は『観心本尊抄文段(もんだん)』に
 「当に知るべし、蓮華は水によって生じ、我等が信力・行力は必ず法力によって生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何んぞ信行を生ぜん(中略)我等、法力により信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず」(富要 4−248頁)
と仰せです。
 もともと日蓮大聖人の御当体たる御本尊には仏力と法力が具わっており、この御本尊に対して信じ(信力)、唱題を行ずる(行力)ときに四力が合して成仏がかなうのです。「仏力」も「法力」もない複写の「ニセ本尊」に向かって、凡夫がいかに信力・行力を発動しようとも、真実の境(きょう)智(ち)冥合(みょうごう)などありえません。
 迷いの衆生である凡夫の信力・行力によって、御本尊に仏力・法力が具わり、本当の本尊になるなどという論は、因果を無視した外道の考えであり、また「我、仏に勝れたり」とする増上慢の極(きわ)みです。

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 24 「ニセ本尊」を拝むとどうなるのですか。

 「ニセ本尊」には、仏法に敵対する魔の力があり、これを拝むと魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪によって永く地獄に堕ちる結果となります。
 大聖人の仏法において「似て非なるもの」を用いるということは、大謗法です。
 その理由は、仏に似ているがゆえに、正しい教えが隠され、多くの人々が真実の仏を見失ってしまうからです。
 大聖人は、真言宗が天台の一念三千を盗み入れて「大日経(だいにちきょう)第一」と立てたことに対して「真言亡国」と破折されていますが、今回創価学会が作製した「ニセ本尊」は、日蓮正宗の御本尊を盗み取り、日寛上人の御本尊に姿・形を似せているだけに、その罪もまた大きいのです。
 第二代戸田会長は、御本尊について
 「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(大白蓮華 九八―九頁)
と指導しています。

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 25 「『ニセ本尊』に功徳がない」ということは、学会員が拝んでいる従来の御本尊には功徳があるということですか。

 三宝を誹謗する謗法団体となった創価学会に所属している人は、従来の御本尊でも功徳は積めません。
 「『ニセ本尊』に功徳はない」というのは、その本尊自体が、最初から大御本尊の血脈が通じておらず、仏力・法力が具わっていないからです。
 従来の御本尊は正しい血脈のもとにまさしく仏力・法力が具わっており、御法主上人の御指南に従って正しく信仰をすれば、功徳があることはいうまでもありません。
 しかし、従来の御本尊であっても、拝む人が血脈付法の御法主上人を誹謗するならば、四力(仏力・法力・信力・行力)が合せず、功徳はありません。まして何よりも「ニセ本尊」を作るほどの謗法団体になった学会に所属していては、絶対に功徳はありません。かえって、拝むほどに罪業を積み重ねることになります。さらには今までの信心による一切の功徳が消えてしまうことを恐れるべきです。 
 「信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(新編 515頁)
とは、このことです。

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第四章 日蓮正宗の信仰



 26 日蓮正宗の「信仰」とは何ですか。

 総本山大石寺にまします、本門戒壇の大御本尊を根本とし、唯授一人の血脈に従い、本門の題目を自行化他にわたって行じることです。
 信仰とは、絶対的なものを「信じ仰ぐ」ことです。「何」を対象として信ずるかによって正邪が決まりますが、仏法では三宝を対象とします。
 日蓮正宗の法義では「文底下種の三宝」といって、
  仏宝―日蓮大聖人
  法宝―本門戒壇の大御本尊
  僧宝―日興上人
を随一とする御歴代上人と立てます。
 その当体への「信仰」については、『当流行事抄』に、
 「我等唱え奉る所の本門の題目其(そ)の体何物ぞや、謂(い)わく、本門の大本尊是れなり、本門の大本尊其(そ)の体何物ぞや、謂わく、蓮祖大聖人是れなり」(聖典 954頁)
と、人法一箇の御本尊を信じ、本門の題目を唱えることと明示されています。
 唯授一人血脈相承の御法主上人の御指南に従い、大聖人出世の御本懐(ほんがい)である本門戒壇の大御本尊を、信じ行ずることが日蓮正宗の「信仰」なのです。

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 27 「広宣流布」の本当の意味は何ですか。

 総本山第二十六世日寛上人は
 『文底(もんてい)秘(ひ)沈(ちん)抄(しょう)』に「富士山は是れ広宣流布の根源の故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(聖典 855頁)
と仰せです。
 すなわち、全世界の人々が総本山にまします本門戒壇の大御本尊に帰依して、本門の題目を唱えることを「広宣流布」といいます。
 『諸法実相抄』に
 「剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(新編 666頁)
と仰せられ、『如説修行抄』には、広宣流布のときには、自然界も、社会も、そして個人も、平和で安穏な世界になると説かれております。
 日蓮正宗の仏法を「広宣流布」することが大聖人の御遺命(ゆいめい)なのです。現在の創価学会のような、本尊と血脈に迷う人々がどれほど増えても、大聖人の御正意の「広宣流布」ではありません。
 日達上人も
 「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(達全 2−6−295頁)
と明確に仰せられています。

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 28 「令法久住」と「広宣流布」とはどのような関係にあるのですか。

 大聖人の仏法を血脈相承によって、末法万年に正しく伝えることが「令法久住」であり、正法が全世界に弘まることを「広宣流布」といいます。
 『報恩抄』には
 「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」(新編 1036頁)
と仰せです。「令法久住」と「広宣流布」とは「法を正しく久住させる」時間的な縦の流れと、「広く正しく流布せしめる」地域的、現実的な横の流れという、不離の関係にあるといえましょう。
 大地から幹が伸びるすがたを「令法久住」、幹から枝が繁るすがたを「広宣流布」に譬えれば、幹から離れた枝は枯れますが、幹からは再び新しい芽を吹き出します。その幹こそ血脈相承ですから、歴代の御法主上人を誹謗する創価学会が、いかに「広宣流布が進んだ」といっても、所詮(しょせん)枯れ枝となるのは明白です。
 本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承の「令法久住」があってこそ、万年にわたる一切衆生成仏の「広宣流布」が成就するのです。

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 29 学会では「宗門は法主信仰だ」といっていますが本当ですか。

 宗門は「法主信仰」ではありません。
 本宗では、あくまで信仰の対境は本門戒壇の大御本尊であり、これは昔も今もまったく変わりがありません。私たちにとって、御法主上人は御本仏日蓮大聖人の御内証を受け継ぐ正しい師ですから、敬うのは当然です。
 大聖人の仏法は、日興上人ただお一人に付嘱されました。また日興上人より日目上人へ、日目上人より代々の御法主上人へと正しく伝えられ、今日の日蓮正宗があるのです。
 かつて池田大作氏も、
 「ご存じのとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、(中略)現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿(ほうとうれんめん)と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである」 (広布と人生を語る 三−二四九頁)
と述べていました。」
 現在<の宗門を「法主信仰だ」というならば、池田氏も法主信仰者だったことになります。
 「宗門は法主信仰だ」と創価学会がいい張るのは、本来敬うべき御法主上人を誹謗し、かつ宗門から会員を引き離すためのデッチあげにすぎません。
 それよりも、池田大作氏の意向によって、大聖人が定められた血脈相承を否定し、戒壇の大御本尊をも軽視する創価学会こそ、「池田教」といわれても仕方ありません。

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第五章 創価学会の信仰観



 30 秋谷会長が「学会は『御書根本』として進んできた」と指導していますが、「御書根本」という考えは正しいのですか。

 創価学会でいう「御書根本」は、相伝によらず、自分の都合のよいように解釈するものですから、正しい考え方ではありません。
 総本山第六十五世日淳上人は、
 「古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理(ごくり)の師伝を知らずこれを忽(ゆるが)せにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救うべからざるに至る、誠に嘆ずべきである」(淳全 45頁)
と、師伝(しでん)すなわち相伝を曖昧(あいまい)にして、御書のみにこだわる人は、我見に堕ちる者として破折されています。
 日蓮大聖人は、
 『一代(いちだい)聖(しょう)教(ぎょう)大意(たいい)』に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(新編 92頁)
と仰せです。創価学会が唯授一人血脈付法の御法主上人を誹謗し、否定している現在では、いくら「御書根本」と主張してみても、それが相伝によらないものである以上、御書の意味を正しく理解することはできません。
 同じ日蓮大聖人の御書を拝しても、日蓮正宗以外の日蓮宗各派は、教義も本尊も大聖人の御精神に反しているのは、相伝がないためです。
 日蓮大聖人の仏法は、『日興遺誡置文(ゆいかいおきもん)』の
 「当門流に於ては御(ご)鈔(しょう)を心肝(しんかん)に染め極理を師伝して」(聖典 563頁)
との御指南のように、宗祖大聖人より日興上人、日目上人、代々の御法主上人へと血脈相伝された「極理」を師伝して、「御書を心肝に染める」ことが根本なのです。

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 31 学会でいう「大聖人直結」は、正しいことなのですか。

 正しくありません。
 学会でいう「大聖人直結」の真意は、御歴代上人の血脈相承と宗門七百年の伝統を否定して、池田教としての独立を正当化することにあります。
 常に私たちは、時の御法主上人の指南に従って信仰することが大切です。なぜならば、日蓮大聖人は『身延山付嘱書』に
 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」(新編 1675頁)
と仰せのように、大聖人の御内証は日興上人ただお一人に伝えられ、その後は日目上人以来御歴代の御法主上人に相承され、今日に至っているからです。
 その唯授一人の血脈相承に背き、「大聖人直結」と主張する僧俗は「非法の衆」であり、大謗法なのです。
 日興上人も佐渡の信徒たちに対して
 「案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候、これらの人、謗法にて候なり」(歴全 1−184頁)
と戒められています。

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 32 学会でいう「人間主義」は、どこが間違っているのですか。

 一般的に「人間主義」はヒュ−マニズムともいわれ、人間の意義と価値を重視し、人間の権利や自由を尊重する思想≠ニ解釈されています。
 しかし創価学会は、仏法本来の僧俗・師弟の立て分けを「権威主義」として排除し、自らの優位を誇示するために「人間主義」などの聞こえのよい言葉を振り回しているに過ぎません。
 人間の価値をすべてに優先させるという意味では、人間主義と民主主義は共通であり、その基本原則は自由・平等・尊厳といわれています。
 私たちは、人間として何ものにも束縛されず、平等に認められ、人間としての尊厳を守ることが理想です。
 しかし、これを仏法の立場からみれば、人間一人一人がそれぞれ過去の業因と宿縁によってさまざまな報いを受けているのです。
 日蓮大聖人は『当体義抄』に
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道・法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて云云」(新編 694頁)
と仰せられて、御本仏が悟られた妙法を信受することによって、衆生ははじめて人間として理想的な境界に到達できることを説かれています。
 現在の創価学会が、仏法上の僧俗の節目(すじめ)を破壊し、在俗の池田大作氏を宣揚せんがために、さかんに「人間主義」を強調しているのは、実に愚かな行為というべきです。

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 33 池田氏がいう「大宇宙の生命のリズムと小宇宙である自分が合致するために唱題をする」という考え方は正しいのですか。

 大宇宙の生命のリズムと自分が合致するなどという考えは全くの邪義です。
 日蓮大聖人は、宇宙に遍満する法を御本尊として顕わされたのではなく、御本仏の御内証を一幅の御本尊として顕わされたのです。
 それが、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊です。
 本門戒壇の大御本尊は、人即法・法即人、人法一箇の御本尊であり、決して大宇宙の生命のリズムなどという法ではありません。
 私たちの信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、この大御本尊を対境として唱題することにより、即身成仏の功徳を得ることができるのです。
 御法主日顕上人は、法のみに偏(かたよ)った考えに対し、次のように破折されています。
 「宇宙に遍満する法のリズムに我々が合致するなどと言っておるようですが、あれは大変な間違いです。むしろ、大聖人様の仏法に対する冒涜であります。法といっても、それは大聖人様の久遠元初の御当体としての自受用報身の一念に具わる法なのです」(大日蓮 563−54頁) 
したがって、私たちが本門戒壇の大御本尊に向かって純真に唱題するとき、御本仏の一念に境智冥合し、はじめて成仏の大利益が生ずると理解すべきです。

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 34 「信心の血脈さえあればよい」という学会の指導は正しいのですか。

 創価学会は、『生死一大事血脈抄』の講義の中で、
 「血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである」(学講 三〇上−五八頁)
 「したがって、総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れる」(同書 六一頁)と述べていました。
 日蓮大聖人は『曾谷殿御返事』に、
 「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず、輪廻(りんね)生(しょう)死(じ)のもとゐたらん」(新編 1039頁)
と仰せですが、本宗においては血脈にも総別の立て分けがあり、そこには厳とした筋目があるのです。
 現在の創価学会のように、別しての「法体の血脈」を否定し、総じての「信心の血脈」だけを強調することは、成仏どころか、堕地獄の業因となります。

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 35 学会では「現在の宗門は狂っているから、宗門に従っても功徳はない」といっていますが本当でしょうか。

 これが今まで日蓮正宗の信仰をしていた人の言葉なのでしょうか。
 日蓮正宗の総本山には本門戒壇の大御本尊が厳護されており、昔も今も七百年の間、戒壇の大御本尊を根本として、僧俗和合のもとに広宣流布に邁進(まいしん)しています。
 ところが、創価学会はことごとく変わってしまいました。
 例えば「総本山へ参詣するな」「寺院に行くな」「学会に本尊下付の資格がある」「授戒は牧口先生時代から始めたもので不要だ」「葬儀は檀家制度の弊風である」等々、実に枚挙(まいきょ)にいとまがないほどの変貌ぶりです。学会は今回の問題が起きるや、今まで自分たちが行なってきたことを、百八十度変えてしまったのです。
 一体どちらが狂っているのでしょうか。
 酔った眼で山を見れば、自分は不動で山が動いているように見えるように、狂った人が宗門を見れば宗門が狂ったように見えるのでしょう。仏法の正邪を決するのは人の数や世法の力ではありません。あくまでも御本仏のお心、すなわち法体と相伝をもって判断すべきなのです。
 富士大石寺から離れた創価学会には、もはや宗祖大聖人の法体はもちろん、唯授一人の相伝もないのです。そのような創価学会に従っても、罰こそあれ、決して功徳はありません。

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 36 学会には、「池田名誉会長が『世界の指導者』として世界各国から称賛されることが広宣流布につながる」という考えがありますが、これは正しい考えでしょうか。

 広宣流布とは、正当な日蓮大聖人の仏法を弘めることです。
 かつて日達上人は
 「日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります」(達全 2−6−295頁)
と仰せられました。
 たとえ池田大作氏が世界の要人から称賛されたとしても、その称賛する人たちは正法の護持者ではないのです。
 大聖人は、『開目抄』に
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(新編 577頁)
と仰せられております。
 過去に戸田会長は『青年訓』において
 「愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(戸田城聖全集 一−六一頁)
と指導していたではありませんか。
 『法門可被申様(もうさるべきよう)之事』の講義にも「社会的名誉を第一とする三位房(さんみぼう)の姿勢を、大聖人は
 『旁(かたがた)せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか』と厳しく叱責されているのである」(学講 二七−一〇五頁)
とあります。
 このように、世間から誉められることが広宣流布につながるとの考えは、大聖人の教えにはありません。
 大聖人は『持妙法華問答抄』に
 「名聞名利は今生(こんじょう)のかざり(中略)嗚呼(ああ)、恥づべし恥づべし」(新編 296頁)
と厳しく戒められています。

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 37 学会員は「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」と指導されますが、これは正しい指導なのでしょうか。

 このような指導は間違いです。
 現在の創価学会員が、日蓮正宗の正しい信心ができないのは、かえって「池田先生のおかげ」を最優先させているからです。
 第二代会長戸田城聖氏は
 「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私はひじょうに光栄とするものであります」(戸田城聖全集 四−三九九頁)
といっています。
 学会は檀那(信徒)の団体であり、会員が会長を尊敬することは当然ですが、三宝以上に敬うことは本末転倒であり、謗法になります。
 今までの学会員が功徳を得てきたのは、「御本尊様のおかげ」「正しい仏法のおかげ」であって、「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」ではないのです。

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 38 学会では先生と自分との関係を忘れない信心こそ功徳がある≠ニの指導をしていますが、この考えは正しいのですか。

 学会では「御本尊と自分の間に、ほかのものはいらない」と指導しているのに、ずいぶん矛盾した指導ではありませんか。
 日蓮正宗は、日蓮大聖人の仏法を信じる教団です。
 したがって、『上野殿御返事』に
 「此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事なり」(新編 1219頁)
と仰せのように、大聖人の教えでないものを入れることは謗法です。
 「先生と自分との関係を忘れない信心」とのことですが、信仰をしていくうえで、池田大作氏を絶対的な立場に位置づけることは間違いです。
 昭和五十三年一月に、第六十六世日達上人は
 「先日、東北のある県で、御本尊に向って、ある人を心に思い浮かべてお題目を唱えろ≠ニいうことを指導した人がある(中略)実に残念なことでございます。それでは謗法の念慮(ねんりょ)を絶したということにはならない」(達全 2−7−136頁)
と仰せられましたが、このある人≠ニは当時創価学会会長であった池田大作氏を指していることは周知の事実です。
 ましてや、今日、池田氏は大慢心を起こして、日蓮大聖人の仏法を継承する日蓮正宗を誹謗しているのですから、その池田氏との「関係を忘れない信心」をすれば、池田氏同様、会員も頭破作七分になり、悪道に堕(お)ちることになります。

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 39 「学会員が増えることが広宣流布」ということは正しいのですか。

 第六十六世日達上人は、
 「創価学会創立四十八周年記念代表幹部会」の折、「とにかく大聖人以来、七百年間守りつづけてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これを踏まえなかったならば仮りにこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったかとの後世の批判を免れることはできないのではないかと心配いたします」(大白蓮華 三三三−一三頁)
と明確に指南されております。
 かつて池田大作氏は
 「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏・日蓮大聖人の『遣(けん)使(し)還告(げんごう)』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これら(=正信会)の徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗の異流であり、反逆者であるからである」(大白蓮華 三六三−五二頁)
と発言しておりますが、この言葉どおり、現在の創価学会は、日蓮正宗の正法に敵対する異流義となり、日蓮正宗より破門されてしまいました。
 したがって、学会員がいかに増えても広宣流布とは関係ありません。

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 40 学会は「創立以来、一貫した信心」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、はたしてそうでしょうか。

 現在の創価学会の主張と、過去における主張とが矛盾していることは、過去の学会出版物と見くらべれば明白です。
 たとえば、戸田二代会長は
 『信者の大精神に立て』のなかで、「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには一切関知せぬ大精神でとおしてきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども、即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない」(聖教新聞 S三一・一・二九)
と述べています。
 また、池田大作氏は会長就任式で
 「御法主上人猊下にご奉公申し上げることが、学会の根本精神であると信じます」(大白蓮華 一〇九−七頁)
といい、さらにまた、
 「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順してゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」(広布と人生を語る 三−三二頁)
と指導していますが、これらの指導と現在行なわれている指導とが一貫しているとはとうていいえません。

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第六章 血脈について



 41 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。

 「唯授一人の血脈」は、日蓮大聖人が大法を余(あま)すことなく日興上人お一人に相承され、さらに日目上人、日道上人以来の御歴代上人を経て、御当代日顕上人へと伝えられています。
 一方「信心の血脈」とは、この唯授一人の血脈を信順することを前提として、日蓮正宗の御本尊を無二に信ずるところに流れ通うものであり、「信心の血脈」のみを切り離して本宗の信仰を語れるものではありません。したがって、「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」を同列に考えることは間違いであり、「唯授一人の血脈」を信ずるうえで御本尊を拝することが大切なのです。
 以前に学会が発行した『生死一大事血脈抄』の講義には、
 「信心の血脈」を解釈する段で、「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(学講 三〇上−三二頁)と述べています。
 現在の学会では「信心さえあればよい」と指導しているようですが、「何を、どのように信ずるか」ということが明確でなければなりません。
 やみくもに「信心の血脈」だけをふりかざす指導は、「唯授一人の血脈」をないがしろにするものです。

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 42 唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。

 そのとおり、矛盾しています。
 なぜならば、『本因(ほんにん)妙抄(みょうしょう)』に「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)とお示しのように、唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるものであって、これを分けて論ずることはできないからです。
 総本山第五十六世日応上人も『弁惑観心抄』の中で「此の金口(こんく)嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能わず」(同書 212頁)
とも
「この金口の血脈こそ、宗祖の法魂を写し本尊の極意(ごくい)を伝ふるものなり。これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)と仰せのように、御本尊は宗祖大聖人の法魂であり、その法魂を唯授一人の相承によって写し奉るものですから、唯授一人の血脈を否定する者は、御本尊をも否定することになるのです。
 「唯授一人の相承」なくして日蓮正宗の御本尊はありえないことを知るべきであります。
 かつて池田大作氏が「法水写瓶(しゃびょう)の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八−二二八頁)と指導していたとおりです。

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 43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。

 これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
 学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上−五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
 第五十六世日応上人は、
 『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。

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 44 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。

 かつて創価学会では
 「『総じて日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べられたものである」(学講 三〇上−五九頁)
と正しい法義に準じた説明をしていました。
 この説明にもあるように「信心の血脈」とは、あくまでも、別しての法体の血脈相承を受けられている御法主上人への信順なくして流れ通うものではありません。
 御法主上人を仏法上の師匠と仰ぎ、師弟相対して大御本尊を信受するところに信心の血脈も流れ通うのです。
 ところが現在の学会は、法体の血脈を否定し、御法主上人に敵対しているために、「信心の血脈」を破壊する破和合僧団になり下がったのです。

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 45 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。

 御法主日顕上人は「法華講連合会第二十八回総会」の折に、
 「大聖人様が下種の仏宝であり、南無妙法蓮華経の大御本尊が法宝であるのに対して、久遠常住の下種三宝、つまり化導の上の下種三宝の僧宝とは、その随一(ずいいち)が二祖・白蓮阿(あ)闍(じゃ)梨(り)日興上人様にあらせられる」(大日蓮 547−66頁)
と指南されました。
 この下種三宝観は、僧宝として日興上人お一人に御歴代上人を集約された姿であり、常住不変の義を表わしています。
 また日寛上人が『当流行事抄』で、
僧宝を日興上人お一人に限定される御文がありますが、これは客殿などに見られる別体三宝の奉安形式を意図して述べられたものです。
 しかし、これを「伝持」の上からいうならば、御歴代上人も僧宝になるのです。
 日寛上人の『当家三衣(さんね)抄』に
 「南無僧とは(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫(そうかん)首(ず)、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法・歴代の諸師」(聖典 971頁)
と、伝法所持の上から御歴代上人も僧宝に入ることが示されています。
 私たちは、御本仏大聖人以来の血脈付法の御歴代上人の御指南に従って、本門戒壇の大御本尊を深く信順し、信心修行を実践していくところにのみ、真の即身成仏がかなうのです。

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 46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 本宗には「法主信仰」などというものはありません。
 本宗においては今日に至るまでの七百余年にわたり、本門戒壇の大御本尊を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝と仰ぎ、また第二祖日興上人を随一とする御歴代上人を僧宝と拝して、僧俗ともに信心修行に邁進(まいしん)してきたのです。
 僧宝とは、大聖人が『四恩抄』に、
 「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(新編 268頁)
と示されているように、大聖人の仏法を令(りょう)法(ぼう)久(く)住(じゅう)・広宣流布せしめるために絶対になくてはならないものです。
 かつて池田大作氏は長野研修道場において、
 「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた」(広布と人生を語る 三−二五六頁)
といいましたが、当時も今も宗門は全く変わっておりません。
 現御法主日顕上人は毎朝の丑寅(うしとら)勤行はもちろんのこと、全国各地へ御親教され、休む間もなく宗内僧侶及び全国信徒の教導に当たられております。また、総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を砕(くだ)かれ、常に正法興隆のため、率先(そっせん)して法務に務められているのです。しかも、平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました。宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を抱(いだ)かない者はいないのです。
 今の宗門は「僧宝の働きを失っている」どころか、御法主上人が常に第一線に立たれて、大いに僧宝の働きをなしているのです。

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 47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
 日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。
 『身延相承書』に
 「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には
 「白蓮阿闍梨日興に相承す」(同頁)
とあり、ここには「相承」と記されています。
 宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇(にか)相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
 かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち 「(日興上人は)入滅にさきだち、第三世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人から相伝された一切を日目上人に付属された」(同書 二二九頁)
と説明していたのです。
 このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
 ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。

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 48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といってい ますが、本当ですか。

 この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
 御相承について、御法主日顕上人は
 「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560−19頁)
と指南され、その証拠に『家(け)中(ちゅう)抄(しょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
 「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
 もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
 第五十六世日応上人も、
 「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七−四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
 私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
 部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。

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第七章 御本尊の書写・授与について



 49 御本尊の「書写」とはどういうことですか。

 日蓮正宗の各末寺に安置されている御本尊や信徒に下付される御本尊(ニセ本尊は除く)は、すべて根本の御本尊たる本門戒壇の大御本尊のお写しです。御本尊の左下の方を拝すると、「奉書写之」(之(これ)を書写し奉る)としたためられています。
 「之(これ)」とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです。
 この戒壇の大御本尊の御内証を書写できるのは、大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人ただお一人なのです。
 このことは、第五十六世日応上人が
 「金口(こんく)嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」(弁惑観心抄 212頁)
と、はっきり戒められています。
 つまり、御本尊の書写とは本門戒壇の大御本尊を所持され、大聖人の仏法の一切を受けられている御法主上人が金口嫡々相承のもとに、その御内証を書写あそばすことであり、他の誰人もできないことです。
 かつて、池田大作氏も「われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体(ふんじんさんたい)の法理からおしたためくださるのである」(広布と人生を語る 一−一一二頁)
と明言していたとおりです。

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 50 学会では「従来、法主の権能(けんのう)とされてきた御本尊書写などは、実際は単なる『役割』にすぎない」といっていますが、本当でしょうか。

 従来、御本尊のことはすべて御法主上人お一人に限られてきたのですから、それは「権限」であり「権能(けんのう)」です。
日蓮大聖人は
 『百(ひゃく)六(ろっ)箇(か)抄』に「日興が嫡々相承の曼(まん)荼羅(だら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(新編 1702頁)
と仰せです。
 さらに日興上人は『日興跡条々事』に
 「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(新編 1883頁)
と、本門戒壇の大御本尊を日目上人へ相伝され、さらには日道上人等の御歴代上人に相承されてきました。
 『百六箇抄』に
 「御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし」(全集 八六九頁)
とあるように、御本尊書写のことは、御法主上人の権能です。
さらに御法主上人は、日蓮大聖人の仏法の一切を相承伝持される立場から、御本尊を書写され、我々に下付されるのですから、単に「役割」などという軽いものではないのです。

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 51 御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。

 御本尊書写の権能は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが、日蓮大聖人の教えです。
 『本因(ほんにん)妙抄(みょうしょう)』に、
 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と仰せられています。
 また、第五十六世日応上人は
 「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」(弁惑観心抄 212頁)
と仰せです。
 したがって宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。
 ただし御隠尊(いんそん)猊下が御当代上人の委託(いたく)を受けて、御本尊を書写されることはあります。(次項参照)

[参考資料]
 「尊師(ぞんし)自らも在世中一幅の本尊をも書写し玉はざる。唯授一人の相伝なくして書写すべきものに非ざるが故になり、然るに其の末弟として其の禁誡を犯し、恣(ほしいまま)に血脈相承ありとして、本尊を書写せること、師敵対・僣聖上慢(せんしょうじょうまん)の悪比丘たるべし」(研教 二七−四七二頁)

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 52 御隠尊(いんそん)猊下が御本尊を書写されることはあるのですか。

 御隠尊(いんそん)猊下とは、御法主を退職された方の尊称です。
 『日蓮正宗宗規』第十四条の第五項に、
 「退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える」とあり、同条第六項には、「前法主は、法主の委(い)嘱(しょく)により、本尊を書写し、日号を授与する」
とあります。
 すなわち、御隠尊猊下は、唯授一人の血脈が断絶しないよう不測の事態に備えられるとともにまた現御法主上人からの委託(いたく)(委ねたのむこと)を受けて御本尊書写をされることがあるのです。

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 53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。

 創価学会には、決して本尊授与の資格はありません。なぜならば、本尊授与は唯授一人の血脈によってなされるからです。
 第五十九世日亨上人は、
 『化儀抄註(ちゅう)解(げ)』に「然るに本尊の事は斯の如く一定(いちじょう)して・授与する人は金口(こんく)相承の法主に限る」(富要 1−112頁)
と仰せられ、本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと教示されています。
 学会は「自分たちが和合僧団である」とか「信心の血脈がある」といいますが、総本山大石寺に敵対し、御法主上人を誹謗する現在の学会は、日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団であり、和合僧団などではありません。
 まして「御本尊を授与する資格がある」などは、根拠のない戯言(たわごと)というほかありません。

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 54 御本尊に関する「書写」「授与」「允可」の権能は、どのような関係にあるのですか。

 日蓮正宗において、御本尊を「書写」できる方は、御法主上人お一人であり、御本尊の「授与」および「允可(いんか)」の権能も、唯授一人血脈相承のなかに含まれているのです。
 『本因妙抄』に
 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
 と仰せのように、本尊にかかわるすべてのことは、御法主上人の権能であり、他の誰人も触れることはできないのです。
 日興上人の時代において、本尊の大事の相伝もない者が大聖人の直筆(じきひつ)御本尊を勝手に形木(かたぎ)に彫(ほ)り、本尊を作って、不信の者に配った例があり、これについて日興上人は
 『富士一跡門徒存知事』に「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み不信の輩に授与して軽賎する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり」(新編 1872頁)
と戒められております。
 さらに前項(第五三項)の第五十九世日亨上人のご教示からも御本尊の書写や授与などの大権は、すべて御法主上人お一人に限ることが明かです。

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 55 『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。

 そんなことはありません。「唯授一人の血脈」こそ、大聖人の仏法を正しく末法万年に伝えるための教えであり、大聖人御自らが定められたものです。
 『身延相承書』に
 「血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
とあり、日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承されたことが明らかです。これが「唯授一人の血脈」でなくてなんでありましょう。
 『本因妙抄』の御文については、重須の第二代学頭であった三位(さんみ)日順師が、『本因妙抄』を解釈して『本因妙口決』を著わし、そこに
 「唯授一人の一人は日興上人にて御座候」(富要 2−84頁)
と注記しました。これについて、第六十五世日淳上人は、
 「上掲の御文は本抄(本因妙抄)末尾に『日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられると、念釈をなされたのである」(淳全 1449頁)
と仰せられています。
 このことからも明らかなように、「唯授一人の血脈」という教えは、日興上人にお仕えした三位日順師が明言しているのですから、「『本因妙抄』は大聖人の御書ではない」などといって、「唯授一人の血脈」を否定する学会の主張は全くの妄説というべきです。
 また学会では、御書全集を編纂(へんさん)された日亨上人が、『本因妙抄』の末尾部分が大聖人の教えでないために小さい活字にしたといっています。それでは日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになるではありませんか。それこそ日亨上人に対する冒涜といえましょう。

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 56 学会では、『百(ひゃく)六(ろっ)箇(か)抄』の「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」の御文を、後人が勝手に書き加えたもので、大聖人の御書ではないといっていますが、それは本当ですか。

 『百(ひゃく)六(ろっ)箇(か)抄』のこの御文を「御書ではない」などというのは、本宗相伝の仏法を知らない人の言です。
 御書全集には、日興上人が大聖人の代わりに後半部分を書かれた『滝(りゅう)泉(せん)寺(じ)申状』をはじめ、全部を代筆された『波木井(はきり)殿御報』、また『御義口伝』や『御講聞書』のように大聖人の教えを日興上人や民部日向が筆録した講義録など、大聖人の直筆(じきひつ)でない御書が多々収録されています。まして『百六箇抄』のような相伝書の場合は、大聖人の御法門を整足するという性格上、大聖人の常の御文体とは違った形で表現されることは当然です。
 もし、「大聖人の御筆によらなければ御書とはいえない」というのであれば、相伝書はすべて大聖人の御書ではなくなります。
 第五十九世日亨上人が、質問の御文について、『富士宗学要集』に
 「義に於いて支吾(しご)なき所」(同書 1−25頁)
といわれているように、大聖人の仏法の一切を唯授一人の血脈相承によって受け継がれた御法主上人が御允可(いんか)され、自ら御書として載録(さいろく)されているのですから、御法門に間違いがあるなどということはありえません。たとえ大聖人・日興上人の直筆がなくとも、その正統な精神と意義において、『百六箇抄』は立派な御書です。

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 57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。

 この質問には@創価学会の破門について、A御法主上人が広布を破壊したか否かについて、B御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。

 @の学会の破門について。
 第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
 「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2−7−327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧(きぐ)が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
 このため日顕上人は
 「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553−48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。

 Aの広布の破壊について。
 池田大作氏が率(ひき)いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。

 Bの法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。

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 58 現在も末寺で御本尊を下付されますが、末寺の僧侶にも御本尊下付の権限があるのですか。

 日蓮正宗の末寺は、すべて総本山大石寺を根本としております。また末寺の住職は、日蓮正宗管長(御法主上人)の任命によって就任します。
 これは本宗の末寺はすべて総本山の所有するところであり、末寺住職は御法主上人の名代(みょうだい)として各地に派遣され、定められた寺務・法務を代行することを意味しています。
 日有上人の『化儀抄』七十四条に
 「本寺(ほんじ)直の弘(ぐ)通所(づうしょ)にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟(じきてい)たるべし」(富要 1−71頁)
とあり、日達上人も
 「その寺の本山法主上人の御代理人たる住職」(達全 1−4−557頁)
と明確に指南されています。
 本宗の末寺において、住職が御本尊を下付するのは、御法主上人の代理として許可を受けたうえでのことなのです。

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 59 過去には学会の会館で御本尊を授与したことがありましたが、在家信徒にも授与の権能があるのですか。

 信徒が勝手に御本尊を授与することはできません。
 以前、日達上人の時代に、特別御形木(かたぎ)御本尊に限り、創価学会の会館で下付したことがありましたが、これは当時の状況を配慮された日達上人の許可を受けて行われたものです。
 したがって、この場合は実質的には日達上人が会員に授与されたということであり、創価学会が授与したということではありません。
 御当代日顕上人の代になってからは、従来どおり末寺を通じて下付申請の手続きをとり、末寺において下付されています。
 日達上人が『化儀抄略(りゃく)解(げ)』に
 「守(まもり)本尊や、常住本尊の下附を、本山へ登山参詣して願うにしても、まず第一に自分の直接の師匠に話をして、その師匠の添書をもらって、本山に願い出て、始めて許可せられてこそ、功徳が備わるのであります」(達全 1−4−512頁)
と述べられているとおり、末寺(所属寺院)を通して、御本尊の授与がなされるのが、本来のあり方なのです。

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 60 「御本尊の偉大なる功徳を実証した者」には御本尊を授与する資格があるのですか。

 日蓮正宗七百年の歴史において、御本尊の偉大な功徳を実証された僧侶・信徒は数多くいますが、その人たちが勝手に御本尊を作り、授与したということは一度もありません。
 およそ、自分が御本尊の偉大な功徳を実証したなどということ自体が、増上慢(ぞうじょうまん)の極みであり、この池田大作氏の慢心が、かつての清浄な創価学会を謗法の団体としてしまったのです。
 日寛上人は『三(さん)重(じゅう)秘(ひ)伝(でん)抄』において、
 「法体と修行を混同することは誤りである」(聖典 818頁 取意)
と破折されています。
 すなわち「御本尊の偉大な功徳を実証する」ということは衆生の信心修行の領域であり、「御本尊の書写・授与」とは法体に関することであって唯授一人血脈付法の大導師の権能です。この二面を混同することは大きな誤りといわねばなりません。
 第六十六世日達上人は
 「長い間学会はよく宗門のために尽くして下さいました。その功徳は大きいのであります。しかし功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2−7−327頁)
と指南されています。
 たとえ御本尊の功徳を実証したからといって、相伝なき凡夫が御本尊の権能にまで立ち入ることは絶対に許されないことです。

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 61 御本尊を授与する場合は、総本山の許可が絶対に必要なのですか。

 御本尊授与には、本門戒壇の大御本尊の法体がまします総本山の許可が必要です。総本山の許可ということは、御法主上人の許可ということです。
 総本山第九世日有上人は『化儀抄』に
 「実名(じつみょう)・有職・袈裟・守(まもり)・曼荼羅・本尊等の望みを、本寺(総本山)に登山しても田舎の小(しょう)師(し)へ披露し、小師の吹挙(すいきょ)を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然(しか)るべく候、直に申す時は功徳爾(しか)るべからず」(聖典 九七四頁)
と仰せられ、御本尊の授与は末寺の住職を通して、総本山の御法主上人へ願い出なければならないと定めています。
 また、第五十九世日亨上人は『有師(うし)化儀抄註(ちゅう)解(げ)』に、
 「授与する人は金口相承の法主に限る」(富要 1−112頁)
と仰せです。
 このように御本尊の授与は、すべて御法主上人の権限であって、総本山の許可が絶対に必要なのです。

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第八章 法主上人の允可、開眼について

 62 「允可(いんか)」とはどういう意味ですか。

 「允可(いんか)」とは、一般に、師匠が弟子の悟りに対して、許可を与えることであり、印可とも書きます。
 日蓮正宗においては、信心修行の根本となる「本尊」は、本仏の悟りであり、仏の当体ですから、こと「御本尊」に関しては允可は絶対に必要なのです。
 日蓮正宗では、大聖人の仏法を相伝された唯授一人の御法主上人の允可による本尊を立ててこそ成仏が可能なのですから、御法主上人の允可のない本尊は『ニセ本尊』であり、これを拝むことは堕(だ)地獄の因となります。
 創価学会の『折伏教典』にも
 「三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照して拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである」(同書 三四〇頁)
と書かれています。

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 63 「開眼(かいげん)」とはどういうことですか。

 開眼(かいげん)とは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
 日蓮大聖人は『本尊問答抄』に
 「木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編 1275頁)
と仰せられ、『四条金吾釈迦仏供養事』に
 「此の画(え)木(もく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり(中略)画木にて申せば草木成仏と申す」(新編 993頁)と説かれております。
 また、第三十一世日因上人は御消息の中で
 「木絵(もくえ)の二像は本と草木にて有り、然(しか)るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極(しごく)の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累(るい)も乱れず相伝是れ也」と仰せられ、第五十六世日応上人は「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示(すいじ)し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教 二七−四七四頁)
と仰せのように、本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
 ちなみに学会の『仏教哲学大辞典』では、
 「末法における開眼供養は、ただ三大秘法の大御本尊のみによる以外にないのである」(同書 一−五九〇頁)
と説明していますが、今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。

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 64 末寺で下付されてきた御本尊は、御法主上人が開眼されたものなのですか。

 本宗における「開眼(かいげん)」とは、御法主上人の允可(いんか)によって、本門戒壇の大御本尊の血脈が通じることであり、従来、末寺で信徒に下付されてきた御本尊は、すべて御法主上人の允可すなわち開眼がなされてきたものです。
 『大白蓮華』にも
 「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのであります。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木(そうもく)成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵(もくえ)二像開眼の姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります」(同書 六二−二七頁)
と説明していたように、宗門では七百年来本門戒壇の大御本尊のもと、御法主上人によって御本尊の開眼がなされてきたのです。

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 65 学会では「本尊の開眼などは僧侶の権威を高めるための儀式、実際には無用のもの」と指導していますが、どうでしょうか。

 大聖人は『木絵二像開眼之事』に、
 「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(新編 638頁)
と、開眼供養をしなければ主人のいない家に盗人が入り、魂の去った死人に鬼神が入ってしまうようなことになると教えられています。
 このように日蓮大聖人自ら開眼の重要性を示されることからもわかるように、御本尊の開眼は本宗の伝統法義なのです。
 かつて、池田氏は
 「日蓮正宗の根本中の根本は、ご存じのとおり、本門戒壇の大御本尊であられる。その大御本尊と日蓮大聖人以来の血脈を代々受け継がれる御法主上人がおいでになり、七百年にわたる伝統法義が厳然(げんぜん)とある。この正宗の根本軌道に則(のっと)った信心こそが、正しき信心であり、無量の功徳があるわけである。みずからの信心の濁りや驕慢(きょうまん)から、その根本軌道を失ってはならない」(広布と人生を語る 六−四一頁)
と述べていました。
 これらの池田氏の指導は、「正宗の伝統法義を守る」ことが「創価学会の根本軌道であり」将来にわたって絶対に崩してはならない不動の路線として示されたものです。
 御本尊の開眼は本宗の伝統法義の中でも、最も重要なものです。
 それを都合が悪くなると「権威を高めるための儀式」だとか、「無用のもの」などと指導する学会のいい分は、まさに自語相違です。

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 66 聖教新聞には「拝する側の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力は発現する。これが本来の開眼の意義である」(H五・九・二〇 取意)といっておりますが、これは正しい考え方でしょうか。

 このような考え方は、大変な間違いです。
 なぜなら「拝する側の信力・行力」とは凡夫衆生の信心(観心)であり、「御本尊の仏力・法力」とは御本仏(本尊)の力用のことで、この仏意・機情の二義を同等に論ずることは法義の混乱になるからです。
 日寛上人は、
 『観心本尊抄文段』に「若(も)し観心即本尊に約せば入文の相に違うなり」(富要 4−222頁)
と、厳しく二義の混同を戒められ、さらに同書に
 「若し正境に非ざれば、仮令(たとい)、信力・行力を励むと雖も、仏種を成ぜず」(富要 4−228頁)
と、信仰者の信力・行力よりも、正しい御本尊を正境として信仰することが第一番に大事であると説かれています。
 もし聖教新聞のいうとおりならば、他宗の人でも信力・行力があれば御本尊の開眼ができることになり、身延日蓮宗の漫荼羅も信力・行力によって正しい本尊に開眼できることになりますが、このような説は前代未聞の愚論というべきです。

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 67 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木(おかたぎ)御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。

 宗門においては古来、御本尊を御法主上人の許可なしで下付したことはありません。
 第六十六世日達上人は、
 『化儀抄略解』の注に「当時は交通が不便であり、戦乱相(あい)継ぐ時代である故、日有上人が一時的に末寺住職に許されたことで、形木の意であります。書き判が無(な)いから決定的でないことを表わしている。現今は絶対に許されないことであります」(達全 1−4−560頁)
と仰せです。
 このように御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです。
 また、たとえ特殊の事情があったとしても、こと御本尊に関しては、第二十九世日東上人が
 『当家法則文抜書(ぬきがき)』に「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(研教 九−七四〇頁)
と教示されているように、本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです。
 今日、学会で御本尊を勝手にコピーし、授与するなどはもってのほかの所業なのです。

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 68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。

 この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲(わいきょく)した邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
 そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、
 「宗門は長い間宗門護持の時代であったが、今後は流通広布の時代と定義されるであろう」(淳全 1620頁 取意)
と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に
 「御法主上人の御もとに、日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」(広布と人生を語る 三−二七一頁 取意)
と発表しながら、破門されるや、「今日はその時代ではない」などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
 学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
 ともあれ、このような学会の主張を「詭弁(きべん)」というのです。

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 69 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。

 宗門から離脱した僧侶の話が、はたして信じられるでしょうか。創価学会の手先となり、血脈付法の御法主上人から頂いた袈裟と衣を身につけて、「宗門は悪」「猊下は悪」と喧伝(けんでん)している不知恩の徒輩ですから、はじめから信じるに足りないのは当然のことです。
 御当代日顕上人は、御登座(とうざ)以来今日に至るまで、御本尊を必ず御(ご)宝前(ほうぜん)にお供えし、開眼されています。
 末寺住職は御法主上人の任命を拝し、名代として住職の任を務めています。檀信徒に御本尊を下付するときは、その名代としての責務の上から、御法主上人の允可のもと、御形木御本尊を「本門戒壇の大御本尊」の分身たる寺院の御宝前に供え奉り、読経唱題を申し上げるのです。
 この尊厳なる責務を忘れ、邪智謗法の創価学会と与(くみ)する離脱僧には、始めからこの尊厳なる責務を全うする信心がなかったのです。
 「あるものをない」といい、「ないものまである」といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす離脱僧は、まさに僧形の天魔といえましょう。

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 70 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。

 基本としては、願主が誰であっても、本宗の御本尊を正しく信仰するならば、誰にでも功徳はあります。
 しかし、この質問は、今回創価学会が浄(じょう)圓(えん)寺(じ)の大行(だいぎょう)阿闍梨本證坊授与の日寛上人御書写の御本尊を、御法主上人の許可なく授与書きを削除し、コピーして会員に販売していることについて、御本尊をこのように勝手に扱ってもよいのか、ということでしょう。
 実例を挙げて説明しましょう。
 「お守り御本尊」は授与を受けた願主が死亡した場合、寺院に返納するのが原則です。
 また授与書きのある「常住御本尊」も、願主が死亡したときには寺院に返納します。遺族が引き続きその御本尊を受持したいときは、「感得(かんとく)願い」を申し出なければなりません。
 寺院の常住御本尊には脇書(わきが)きに「○○寺安置」としたためられている御本尊がありますが、その御本尊の御安置の場所を変えるときも、御法主上人の許可が必要です。
 要は、本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄(こんぱく)であり、御本仏の当体ですから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められているのです。
 今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となります。

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 71 学会では、「一(いっ)機(き)一縁(いちえん)」とは大聖人の直筆御本尊に限られるもので、今回下付するのは日寛上人が「一閻浮提総与」の御本尊を書写されたものだから問題ないといっていますが、本当ですか。

 ここでも学会は二重の過(あやま)ちを犯しています。
 第一は「一(いっ)機(き)一縁(いちえん)」の過ちです。御本尊には、万人を対象とした御本尊と、末寺や個人を対象にした御本尊とがあります。
 万人を対象とした御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」といい、現在奉安堂に御安置されている「戒壇の大御本尊」ただ一体を指します。
 それ以外の授与の御本尊はすべて「一機一縁の御本尊」と称します。
 そして、大聖人入滅後の御本尊書写は、日興上人以来血脈相承の御歴代上人が受け継がれ、その時々の僧侶や信徒、寺院に対して「一機一縁」の御本尊を書写し授与されるのです。
 学会でも一機一縁について
 「常住御本尊をいただいた本人が死亡したとき。原則として、一機一縁であるから御返納する」(前進 S四七・六号)
と説明し、御歴代上人の御本尊が一機一縁であることを認めています。
 第二は「一閻浮提総与の御本尊を書写されたものだから問題ない」といって、今回の日寛上人御書写の御本尊のコピ−(ニセ本尊)を正当化し、授与書きを抹消(まっしょう)したことを弁解していますが、本宗では昔から「一閻浮提総与の御本尊を書写した御本尊だから誰が複製してもよい」とか「一閻浮提総与の御本尊を書写した御本尊だから授与書きを抹消してもよい」などという教えはありません。
 このような学会の行為は大謗法なのです。

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 72 創価学会の『ニセ御本尊』は、日寛上人の享保五年六月十三日御書写の御本尊に書かれていた「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」という「授与書き」を抹消していますが、このような変造は許されることなのでしょうか。

 絶対に許されることではありません。
 この御本尊は、日寛上人が本證坊個人に授与されたものですが、これを後の住職が御法主上人の許可もなく他人に提供したり、第三者が勝手に変造し、授与することなど、絶対にあってはならないことです。
 もしそういうことが許されるならば、常住御本尊を下付された信徒は、誰でも勝手に変造し、複製してもよいことになります。
 日興上人は『富士一跡門徒存知事』に
 「誠に凡筆を以て直に聖筆を黷(けが)す事最も其の恐れ有り」(新編 1872頁)
と示され、大聖人の御本尊の散失を防ぐためとはいえ、日興上人御自身が「授与書き」を書き加えることすら、「聖筆を黷す恐れあり」と自戒されているのです。
 それを相承なき輩(やから)が、勝手に「授与書き」を削除し、不特定多数の者へ配布することは、日寛上人の御心を踏みにじる行為になるのは当然です。
 「授与書き」について同抄に
 「賜はる所の本主の交名(きょうみょう)を書き付くるは後代の高名の為なり」(新編 1872)
とあるように、御歴代上人が書き付けられる「授与書き」には甚深の意義があるのですから、これを法主上人の許可もなく勝手に削り取ることは絶対に許されないのです。

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 73 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四(やし)郎国重(ろうくにしげ)」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。

 御本尊の書写については、唯授一人の血脈相承による秘伝であり、他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません。本門戒壇の大御本尊を一番初めに書写された方は第二祖日興上人です。
 その日興上人は宗祖日蓮大聖人から仏法の一切を相承伝授されていることは間違いない事実であり、その相伝による甚深の御境界の上から御本尊を書写されているのです。
 相伝の大事を知らない者が、日興上人以来の御歴代上人の御本尊書写についてとやかくいうことは厳に慎むべきです。
 要は、「法体相承」すなわち宗祖の魂魄(こんぱく)たる御本尊を相伝された御法主上人の許可なく、他の者が勝手に御本尊を複写し、「授与書き」を削除(さくじょ)し、変造することが大謗法になるのです。

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 74 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に適(かな)った教団なのですか。

 創価学会では、
 「日寛上人が生涯をかけて築かれた信心の遺産の全て」は「創価学会のためにあった」(大白蓮華 五一五−四二頁)
といって、日寛上人をあたかも学会のシンボル的存在として宣伝しています。しかし、現在の創価学会は日寛上人の御精神に背反(はいはん)しております。その例をいくつか挙げてみましょう。
 第一に、学会では、三座の報恩謝徳の観念文から日寛上人をはじめとする御歴代上人を削除していますが、日寛上人は『福原式治状』の中で勤行の観念について、「第三座は十如・壽量、祖師代々」と記されており、総本山大石寺の歴代上人への御報恩謝徳の観念を欠かされなかったのです。
 第二に、学会では、三宝の中の僧宝を日興上人お一人に限定したり、「創価学会こそ僧宝である」などといっておりますが、日寛上人は『当家三衣抄』に、本宗の三宝を明かす中で僧宝として日興上人、日目上人を挙げたのち、
 「嫡嫡付法歴代の諸師。此(か)くの如き三宝を云云」(聖典 971頁)
と、御歴代上人を僧宝と立てられています。
 第三に、学会では、唯授一人金口(こんく)相承を否定し、三大秘法の御本尊も法主から法主に付嘱されるのではなく、万人に与えられたもの≠ニいっていますが、日寛上人は『寿量品談義』に
 「二十四代金口の相承と申して一器の水を一器に写(うつ)すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり」(富要 10−131頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が唯授一人の金口相承として、代々の御法主上人に受け継がれ、厳然と大石寺にましますことを説示されています。
 第四に、日寛上人は総本山大石寺の御法主として、『六巻抄』『文段』等を著わされ、邪義邪宗の徒から大石寺を厳護するために、全力を傾注(けいちゅう)されましたが、現在の学会は総本山を敵視し、宗門を攻撃しています。この学会の姿を見られたならば、日寛上人の憤りはいかばかりでありましょう。
 このような事実を覆(おお)い隠(かく)し、総本山大石寺に敵対して学会の御本尊授与は日寛上人御自身の誓願≠ネどとうそぶく創価学会は、まさに不知恩の徒というべきです。今や創価学会は、「宗教団体」とは名ばかりで、その中味は、本尊も題目も化儀もすべて、大石寺のそれを模倣したものばかりではありませんか。迷走する創価学会は、いずれ日寛上人をも否定することになるのは明白です。

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 75 「御本尊根本の信心」や「広布を目指す信心」があれば、誰が本尊を複製してもよいのですか。

 そのようなことは絶対にしてはいけません。
 『本因妙抄』に
 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と教示されているように、戒壇の大御本尊の護持ならびに御本尊の書写と授与など御本尊に関する一切の権能は、唯授一人血脈付法の御法主上人に限るのです。
 学会でいう「御本尊根本の信心」とは本書三一項に破折してあるとおり、「大聖人直結の信心」ということと本質的に同じことです。これらはともに本来の日蓮正宗の信心ではありません。
 また「広布を目指す信心」とは本宗の僧俗が常に心がけなければならないことですが、だからといって「広布を目指す信心」があれば御本尊を複製してもよいということにはなりません。これも本書六七項に破折しているように、衆生の「観心」と本仏の「本尊」とを混乱した邪義というべきです。

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 76 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。

 そのようなことは絶対に許されません。
 かつて池田氏は「末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人がお伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認(したた)めくださっているのである」(広布と人生を語る 四−六七頁)と、御法主上人お一人が末法の大白法を伝え、そのうえから御本尊をおしたためくださったといっていました。
 『本因妙抄』に
 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能があります。
 したがって、たとえ末寺所蔵の御本尊であっても、末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません。日興上人は、
「縦(たと)ひ子孫たりと雖も私に之を与へ、若し又売買する者は同罪たるべき也」(歴全 1−144頁)
として、大謗法であると断ぜられております。
 また、もし御法主上人の許可を受けて末寺住職が御本尊を在家の人に下付したとしても、それを勝手に複製したり配布することは、当然大謗法です。

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 77 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。

 昭和四十七年の十月、全世界の日蓮正宗の僧俗の御供養をもって、総本山に正本堂が完成されました。
 その発願(ほつがん)者である池田氏に対し、第六十六世日達上人は「正本堂賞与御本尊」を授与し、その功績を讃(たた)えられたのです。
 ところが池田氏は正式な手続きをとらず、この御本尊を勝手に模刻し、会館に安置して一般の学会員に拝ませたのです。
 日達上人は後に昭和五十三年六月二十九日の教師指導会において
 「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390−44頁)
と仰せられています。
 御法主上人の允可(いんか)を得ないで、池田氏が勝手に模刻した本尊は、まさに『ニセ本尊』であり、これは後日、池田氏等の詫びとともに、総本山に納められ、二度と日の目を見ることなく今日に至っております。
 なお「正本堂賞与御本尊」の裏に、日達上人の直筆(じきひつ)で
 「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命(ゆいめい)の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」
と書かれていますが、これは当初、学会側から「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為(た)ることの証明の本尊也」
と書いてほしいと原稿を持参して申し入れてきたものです。
 日達上人はこの不遜(ふそん)な申し入れに苦慮のうえ、あえて「準」の一字を入れられて、学会の慢心を戒め、正本堂が直ちに事の戒壇ではないことを念のために書かれたのです。



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第九章 御授戒について



 78 日蓮正宗の授戒にはどのような意義があるのでしょうか。

 本宗の授戒は、御本尊の御宝前において、僧侶の導師によって読経・唱題した後、御本尊を頭に頂戴し、爾前迹門の謗法を捨てて、一生の間退転なく、三大秘法を受持することを下種三宝に誓う儀式です。
 これによって、授戒者は大聖人以来の血脈に浴し、妙法の信仰者として認められるのです。
 大聖人は最蓮房に「授職灌頂」をしておられますが、これは現在の御授戒に当たります。(次項参照)
 この戒体について『教行証御書』に
 「但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝(こんごうほう)器(き)戒(かい)とや申しけん」( 新編 1109頁)
と仰せられ、一度受けた戒体は未来永劫に失せることなく存続し、必ず自分自身を成仏へ導く力となるのです。
 御本尊を頭に頂戴し、本門の戒体を授かることによって、事実の上に仏界を具し即身成仏の当体となることができるのです。
 そのような意義から御授戒は重要な儀式なのです。

〔参考文献〕
 「久遠の一念元初の妙法を受け頂く事は、最極無上の潅頂(かんじょう)なり」(百六箇抄・新編 1699頁)
 「十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり」(御講聞書・新編1860頁)

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 79 「受持即持戒」という仏法の本義に立てば、従来の御授戒の儀式は必要ないものになるのですか。

 「受持即持戒」とは、本門戒壇の大御本尊を受持することによる功徳を表現したものであって、信仰の出発となる授戒の儀式が不要であるという意味ではありません。
 日蓮正宗では御授戒の儀式により、邪宗の謗法を捨てて、三大秘法を持つことを誓います。
 日蓮大聖人は、『最蓮房御返事』に
 「結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂(かんじょう)せしめ奉る者なり。此の受職(じゅしょく)を得るの人争(いか)でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん」(新編 587)
と示され、また『得受職人功徳法門抄』には、
 「釈迦すでに妙法の智水をもって日蓮の頂に灌(そそ)いで面授(めんじゅ)口(く)決(けつ)せしめ給う。日蓮又日浄に受職せしむ」(新定 1―854頁)
と仰せになり、大聖人自ら最蓮房に対し、本円戒を授けたことを明示されています。
 この授戒は僧侶に対してでありますが、信徒もこれに準じて考えるべきです。
 「受持即持戒」の大法だからこそ、正法を受持することを誓う御授戒は大切な儀式なのです。

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 80 『十法界明因果抄』に「爾前経の如く師に随ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり」(新編 216頁)とありますが、これは授戒の儀式を不要とする文証ではありませんか。

 この御文は、釈尊の仏法において、法華経を信ずる者は戒を持つことになると明かされたもので、この文の前には「爾前の十界の人、法華経に来至(らいし)すれば皆持戒なり」とあるとおりです。
 ですから、この御文をもって「僧侶による授戒は不要だ」などというのは、的(まと)はずれのいいがかりにすぎません。
 本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきたものであり、即身成仏のために大事な儀式なのです。
 もし、今になって「御授戒は必要ない」というなら、近年、何百万という人が御授戒を受け、日蓮正宗に入信された事実はどうなるのでしょう。御授戒は無駄なことであった、とでもいうのでしょうか。
 大聖人様は『御義口伝』に「頭に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり」(新編 1765頁)
と仰せられておりますし、日寛上人の『福原式治状』にも、
 「本尊等、願の事。之れ有るにおいては、遠慮なく申し遣(つかう)べし(中略)たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」
とあり、当時、御授戒が行なわれていたことが明らかです。

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 81 学会では「御授戒の儀式は、昭和十二年ごろ牧口会長が宗門に依頼して始められたもので、古来不変の伝統などはない」といっていますが、本当でしょうか。

 御授戒は大聖人御在世当時から行なわれていました。
 『最蓮房御返事』に
 「結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て授職潅頂(かんじょう)せしめ奉る者なり」(新編 587頁)
とあり、この「授職潅頂」とは御授戒の意味です。
 また、江戸時代には金沢の信徒が受戒したことが日寛上人の書状から伺えます。(前項参照)
 ただし戦前から戦後にかけて厳しい言論統制と布教の抑圧があり、地方では御授戒を行なう機会がなかった寺院もありました。だからといって「御授戒は学会のはたらきかけによって始められた」というのは間違いです。

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第十章 昭和五十二年路線と本尊模刻事件について



 82 「昭和五十二年路線」とはどういうことですか。

 昭和五十二年当時の創価学会が、「人間革命は現代の御書」「会長に帰(き)命(みょう)する」「寺院は単なる儀式法要の場」などの指導を行ない、日蓮正宗の教義から逸脱(いつだつ)し、独立路線を企(くわだ)てたことです。
 学会の『山崎・八尋文書』(昭和四十九年四月十二日付)には、「長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める」とあり、また『北条文書』(昭和四十九年六月十八日付)にも「長期的に見れば、うまくわかれる以外にはないと思う」とあるように、当時の創価学会は宗門を実質的に支配して乗っ取るか、それができなければ分離独立するという陰謀(いんぼう)を計画していました。そして昭和五十二年に至って、学会に批判的な僧侶を学会本部に呼びつけての吊(つ)るし上げを始め、池田氏や学会幹部は会合のたびに宗門批判、僧侶攻撃を行ない、ついには御本尊模刻などの大謗法路線を突き進んだのです。
 これが昭和五十二年路線といわれるものです。
 しかし、創価学会は、日達上人の御叱責(しっせき)と宗門の指摘を受け、その責任をとって池田氏が会長を辞任し、大幹部全員が登山して謝罪することによって、日達上人は、再びこのような過(あやま)ちを犯さないことを条件として一応収束(しゅうそく)の形をとられたのです。


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 83 「本尊模(も)刻(こく)事件」について簡単に説明してください。

 「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
 当時模刻された本尊は次のとおりです。 
 @学会本部安置本尊
     (大法弘通慈(じ)折(しゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
 A関西本部安置本尊
     (六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
 Bヨーロッパ本部安置本尊
     (六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
 C創価学会文化会館安置本尊
     (六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
 D学会本部会長室安置本尊
     (六十六世日達上人)(S四二・五・一)
 Eアメリカ本部安置本尊
     (六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
 F賞本門事戒壇正本堂建立本尊
     (六十六世日達上人)(S四九・一・二)
 Gお守り本尊
     (池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三) 
 このうち、@の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
 この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。

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 84 「お守り御本尊」を模刻することはあるのですか。

 「お守り御本尊」は一個人に与えられ、随身(ずいしん)すべき御本尊ですから、板に模刻するなどということは、本宗伝統の化儀に照らして全くありえないことです。
 創価学会会長であった池田大作氏は、自分の「お守り御本尊」を撮影拡大し、勝手に模刻したうえ、昭和五十一年十月二十八日に東北研修所で 「この板本尊を永久に東北の守りとして置く」
旨の発言をしました。
 後に日達上人の命令を受けて学会の模刻本尊を調査した菅野慈雲師の手記にも、
 「特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております」(大日蓮 573−78頁)
と記述されています。

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 85 模(も)刻(こく)作業に携(たずさ)わった赤沢朝陽の社長は、昭和四十九年秋ごろに「日達上人は数体の御本尊の模刻を承知されていた」(聖教新聞 H五・九・三〇 取意)といっていますが、どうでしょうか。

 最近になって、赤沢氏は「昭和四十九年秋ごろに、日達上人は模刻について承知されていた」と発言していますが、その内容は事実と違います。
 なぜなら、菅野慈雲師の手記には、昭和五十三年一月の日達上人のお言葉として
 「今、赤沢朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行って調べて来るように」(大日蓮 573−77頁)
と仰せられたことがはっきりと書かれているからです。
 これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和五十三年正月のことであり、これを報告したのが赤沢氏本人であったことがわかります。赤沢氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。
 日達上人が、その後、昭和五十三年六月二十九日に、総本山大講堂で行なわれた教師指導会で、
 「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390―44頁)
と仰せられています。ですから池田大作氏の
 「実は『本門事の戒壇は正本堂』という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏(ゆいぶつ)与(よ)仏(ぶつ)だ。板本尊で文化会館の七階の座敷に安置してある」
という昭和四十八年十二月二十九日の第二回御義口伝受講者大会における発言当時はもちろんのこと、赤沢氏がいう四十九年当時にも、日達上人が本尊模刻を全く御存じなかったことは明白です。
 赤沢氏の発言は、実にいい加減なものなのです。

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 86 なぜ、学会は御本尊を模刻したのですか。

 はじめに、模刻とは、大聖人御図顕の御本尊や、御歴代上人が書写された紙幅(しふく)の御本尊を、板に御謹告(きんこく)申し上げることです。
 御法主上人の許可を得れば「模刻」自体は謗法ではありませんが、許可を得ないで行なった場合の「模刻」は大謗法であり、かつ正しい本尊とはならないのです。
 創価学会が御本尊を勝手に模刻したということは、当時の会長であった池田大作氏に、御本尊への信心がなくなっていたからにほかなりません。御本尊は根本尊崇(こんぽんそんすう)、本来尊重(ほんらいそんちょう)の御当体で信心の根本ですから本当に信心があり、御本尊への畏敬(いけい)・尊敬の念があるならば、御本尊に関しては厳格すぎるほど厳格に、慎重すぎるほど慎重にお取り扱いするはずです。
 ましてや、御本尊を模刻するという重大な行為ですから、何度でも御法主上人に御指南を戴くべく、総本山に足を運び、ことを進めるのが当然です。
 それを勝手に「模刻」を実行してしまったのですから、たとえどのような理由を並べようとも、池田氏には厳格な信心がなかったのです。しかも、当時池田氏は、本宗の全信徒に模範を示すべき、法華講総講頭の立場にあったのですから、なおさらのことです。

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 87 学会では、当時の宗門と学会との連絡協議会を記録した「藤本メモ」に、本尊模刻について宗門側が承諾した旨、明記してあると主張していますが、いかがですか。

 昭和四十九年九月三日の連絡協議会メモ(別掲2)にある「0K」を見て軽々に判断を下さず、前日九月二日のメモ(別掲1)の内容をよく読んで「OK」の意味を考えなければなりません。
 連絡協議会の議題@〜Fの内で、@は九月三日のメモにあるように、正本堂二周年法要の名称についてですから、特に手続きが必要な事柄ではありません。
 ところがA〜Fの件は、よく読めばわかるように、すべて正式な手続きが必要なことばかりです。ですから九月三日のメモの「OK」は、いずれも前日の連絡協議会の御報告を日達上人にし、正式な手続きを開始する許可を賜ったことを意味する「OK」なのです。
 それより四ヵ月後の、昭和五十年一月十日付メモ(別掲3)に「日昇上人御本尊の彫刻については前に話しがあったかどうか記憶ない、許可した覚えはない」とあり、さらに日達上人は
 「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(菅野慈雲師手記・大日蓮 573−78頁)
と明確にいわれています。
学会は「連絡協議会のメモ」や、関係者の記憶で弁解せず、何年何月何日に正式に許可を戴いた、という明確な書類をこそ公表すべきです。その許可がないゆえに、「OK」の文字で学会員をごまかそうとしているのです。

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 88 「正信会裁判」の証人尋問で藤本総監は、本尊模刻について「これは謗法ではない」と証言されたそうですが、本当ですか。

 この質問に答える前に当時の状況を説明しておきましょう。
 日達上人の後(ご)董(とう)を受けられた日顕上人は、創価学会に対して大慈悲のうえから、教義逸脱(いつだつ)、謗法路線の過(あやま)ちを再び犯さないという条件のもとで一応許されましたが、自称正信会と称する一部の僧侶たちが、これを不服とし、創価学会の謗法を糾(ただ)すためといって、学会を攻撃し、ついには唯授一人の血脈を否定したため、日顕上人は正信会の僧侶たちを厳正に処分しました。
 これに対して正信会は日顕上人を裁判に訴えたのです。その裁判で、証人に立った藤本総監は八体の御本尊模刻について「これは謗法ではない」という証言をされましたが、続けて「手続き的に間違いを犯したということである」と証言しています。
 これは、当時の状況からみて、最大限に学会をかばった証言でした。
 なぜならば、同日の証言で、藤本総監は
 「(御本尊を)無断で書写すれば謗法になります」
とも、
 「(御本尊の複写は)御法主が御許可になればよろしいと思います」
と述べて、あくまでも御本尊に関しては、御法主上人の許可が絶対に必要であるという精神で一貫しているからです。
 また、相手(正信会側)の弁護士の
 「一体のほか、七体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」(取意)
との尋問に対しては、藤本総監は
 「七体については知らなかった」
とはっきり証言されています。
 学会側は宗門が「八体の本尊の模刻をすべて認めていた」といっていますが、これは卑劣な責任転嫁(てんか)であり、まやかしの論にすぎません。

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 89 昭和五十三年十月三日付の「院達」(宗務院からの通達)に「今後は創価学会の板御本尊に関しては、一切論議を禁止する」とありますが、今になって模刻問題を持ち出すのは御先師日達上人に背(そむ)くことではありませんか。

 「昭和五十二年路線」は、昭和五十三年六月十九日に宗門から学会に宛(あ)てて送付された「教義逸脱」に対する質問書を受けて、六月三十日付聖教新聞に掲載された「教学上の基本問題について」を、会員に周知徹底する約束と、同年十一月七日の総本山における「創立四十八周年記念幹部会」での謝罪をもって、日達上人は学会の反省懺悔と受けとめ、問題を収束(しゅうそく)されたのです。
 当時、日達上人は宗内僧侶に対して
 「只今の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、大体この線で了解を願いたいと思います。そして今後、改めて進んで行こうと思います。又それが三年先、五年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えに於いてどう取っても結構だけれども、最近の問題はこの辺で納めて貰(もら)いたいと思います」(大日蓮 390−45頁)
と仰せられています。
 しかし、正信会と称する一部の僧侶が日達上人の方針に従わずに「模刻問題」を取り上げる動きがあったため、宗務院から昭和五十三年十月三日に「一切の論議を禁止する」旨(むね)の「院達(いんたつ)」が出されたのです。
 ところが、現在、創価学会が謗法路線を鮮明にしているのですから、先の日達上人の「三年先、五年先にどう変わっても云云」のお言葉どおり、宗門として学会の無反省体質を指摘し「本尊模刻問題」が学会の体質そのものであることを指摘するのは当然です。

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 90 学会では、模刻本尊を総本山に納めたのは、「日達上人と僧俗和合を守りたい」という宗門側の願い出があったため、と説明していますが、本当ですか。

 これは全くのウソです。
 事実は創価学会が日達上人より叱責(しっせき)されて、総本山に納めたのです。
 この学会側の説明は、「昭和五十二年路線」の折、学会を信徒団体として善導すべく御苦心された日達上人の慈悲を、仇(あだ)で返す不知恩の姿そのものです。
 昭和五十三年九月二日の連絡協議会の記録に、学会が模刻した八体の内、七体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し、日達上人は「そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ」と叱責されたと記されています。
 そして、学会は九月二十八日に「七体の模刻本尊」を総本山に納めたというのが真実の経緯です。
 何ゆえに、勝手に本尊を模刻した大謗法の者に、宗門が願い出て納めてもらわなければならないのか、盗っ人たけだけしいとはこのことです。

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第十一章 文証の検討



 91 「相構(あいかま)へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(生死一大事血脈抄・新編 515頁、全集 一三三八頁)

 〔御文証の解釈〕
 返す返すも強盛の大信力を起こして南無妙法蓮華経と唱え、正念(しょうねん)の中に臨終を迎えられるように(臨終正念が後(ご)生(しょう)善処(ぜんしょ)の因であるから)祈念せられるがよい。生死一大事の血脈は、大信力を起こして南無妙法蓮華経と唱える外(ほか)には全く得られないのである。

 〔創価学会の解釈〕
○大聖人の仏法における「血脈」は「信心の血脈」以外には全くありえない。これ以外の「血脈」を立てるならば、大聖人の仏法から逸脱(いつだつ)した邪教である。法主の「唯授一人血脈相承」も例外ではない。(聖教新聞 H五・九・一八 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 日蓮大聖人の仏法における血脈には、総じての「信心の血脈」と、別しての「法体の血脈」があります。
 学会がこの御文を引いて、血脈は信心の血脈以外にはないというのは、全くの邪義です。
 「信心の血脈」について、『生死一大事血脈抄』の講義に、
 「別しての法体の血脈を大前提として、総じての信心の血脈について述べられたものである」(学講 三〇上−五九頁)
とあり、さらには、同書に
 「この総じての信心の血脈、すなわち、御本仏日蓮大聖人の御一身に流れる生死一大事の血脈は(中略)正法を信ぜず、謗(そし)った場合には(中略)この自身の内なる仏性の種子を断絶することになるから、生死一大事の血脈もまた断ち切ることになる」(同書三三頁)
と述べています。
 この「法体の血脈」が、日興上人以来、連綿(れんめん)として続いていることは、第二十六世日寛上人の『寿量品談義』に、
 「目師(もくし)より代々今に於て、二十四代金口(こんく)の相承と申して一器の水を一器に写すが如く云云」(富要 10−131頁)
と仰せられております。
 第三十一世日因上人の書状にも
 「日蓮聖人乃至日因に至るまで、三十一代累(るい)も乱れず相伝是れ也」
と仰せになっています。
 また戸田第二代会長は
 「ただ日興上人お一人に、いっさいのものをお譲り渡しになっています。それが、堀米日淳六十五世猊下まで、血脈相承といって、われわれの御法主上人に、法水の容器は違うが、その内容は一滴ももらさずに伝えられてきているのです」(戸田城聖全集 二−三七頁)
と指導しています。
 このように、信心の血脈は、その前提として、必ず法体の血脈に基づく信心でなければ成り立つものでなく、法体の血脈を否定するならば、信心の血脈は断絶するのです。

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 92 「信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(生死一大事血脈抄・新編 515頁、全集 一三三八頁)

 〔御文証の解釈〕
 本宗の血脈については前項で述べたとおりです。
 末法の御本仏日蓮大聖人の御一念は「日蓮が魂」と仰せられた一大秘法の本門の本尊であり、この法体の相承に連なる信心の血脈がなければ、御本尊を受持しても利益はない。

 〔創価学会の解釈〕
○「観心の本尊」という本尊義からいえば、御本尊は「信心」があるところにしか存在せず、「信心」がなければ紙幅の御本尊はあっても「観心の本尊」はない。(聖教新聞 H五・九・一八 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 学会の解釈は御本尊そのものを否定する邪義です。
 日蓮正宗の教えは法体たる本門戒壇の大御本尊が根本です。日寛上人は「御本尊」について
 「今安置(あんち)し奉る処の御本尊の全体・本(ほん)有無作(ぬむさ)の一念三千の生身の仏なり。謹んで文字及び木画(もくえ)と謂(おも)うことなかれ」(富要 4−236頁)
と仰せです。
 学会の解釈は、御本尊中心の教義を信心中心に故意にねじ曲げようとする黒い作為(さくい)が見えます。
 「観心」には二通りの意味があって、
 一は、四(し)重(じゅう)興廃(こうはい)でいう「観心の大教」のことです。四重興廃とは「爾前(にぜん)の大教興(おこ)れば外道廃(すた)れ、迹門の大教興れば爾前廃れ、本門の大教興れば迹門廃れ、観心の大教興れば本門廃れる」という仏法流布の順序のことです。日寛上人は『観心本尊抄文段』に
 「十法界抄に四重の興廃を明かす。謂く、爾前・迹門・本門・観心なり。第四の観心とは永く通途(つうず)に異なり、正しく文底下種の法門を以て観心と名づくるなり」(富要 4−217頁)
と説かれております。すなわち文上本門に対して、文底下種の法門を、四重興廃の意義の上から、一応「観心」と称するのです。
 二には、「己心を観じて十法界を観(み)る」という修行の意味の「観心」です。日寛上人は
 「但(ただ)本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」(富要 4−222頁)
と仰せられ、「本門の本尊を受持」することが末法の観心であると示されています。
 「観心の本尊」というときの「観心」とは、まさしく二でいうところの修行に約した、御本尊受持の「観心」をいうのです。
 学会ではこの二つの「観心」の意味を故意に混同させて、文底の法門法体(仏)を個人(行者)の中に引き込もうとしているのです。
 これが、能化・所化、法体・修行を混乱し、戒壇の大御本尊を軽視する邪義であることは明白です。

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 93 「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事・新編 1388頁、全集 一二四四頁)

 〔御文証の解釈〕
 この御本尊は、全く他に求める必要はありません。ただ私たちが法華経を受持して(御本尊を信じて)、南無妙法蓮華経と唱える胸中におられるのです。

 〔創価学会の解釈〕
○本来、御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存するものであり、大聖人の御心に適う信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくとも、仏界涌現の功徳は厳然と顕れる。(聖教新聞 H五・九・八 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 「法華経を持ちて」の法華経とは御本尊のことです。
 「本来、御本尊は妙法を唱える人の胸中に存するもの」というのは、邪教中山門流の「己心本尊論」と同じものであり、「信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくても、仏界が涌現(ゆげん)する」とは邪宗日蓮宗が本尊よりも題目を中心とする邪義に通じるものです。
 「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ」といっても、この御本尊は拝むべき正境の本尊ではなく、私達の身に具(そな)わる仏の生命のことです。
 日達上人は
 「胸中の肉団に御本尊がましますという言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります。(中略)自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥(おちい)って地獄の苦を受けるということになる」(達全 2−5−526頁)
と仰せです。
 現在の学会では、ことさらに「御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存する」と主張し、会員を本門の本尊抜きの信心へ改変しようとしているのです。

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94 「当(まさ)に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王(けんのう)と成(な)って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し摂 受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」(観心本尊抄・新編 661頁、全集 二五四頁)

 〔御文証の解釈〕
 上行菩薩などの四菩薩は、化儀の折伏の時には、賢王と成って愚王の謗法を戒めて正法に帰依させ、法体の折伏・摂受の時には、僧となって「法華折伏破(は)権門理(ごんもんり)」の道理にまかせ、正法を護持し弘通する。

 〔創価学会の解釈〕
○自ら「順縁広布の時」を作り、至難の御本尊流布を敢行し、多くの民衆を現実に不幸の底から救ってきたのは、創価学会以外に断じてない。ゆえに、創価学会こそ「賢王」の団体であり、仏勅(ぶっちょく)を受けた「地涌の菩薩」の集いに他ならない。(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 かつて創価学会は、歴代会長の指導のもとに折伏弘教に邁進(まいしん)し「順縁広布の時を作り」「賢王とよばれ」「地涌(じゆ)の菩薩の集い」かと思われた時もありました。
 しかし池田大作氏は、正本堂建立前後より始まった「五十二年路線」において、御本尊模刻をはじめ、数多くの大謗法を犯しました。
 今回は、以前にもまして、日蓮正宗の根本命脈(めいみゃく)である本門戒壇の大御本尊を冒涜し、唯授一人の血脈相承を否定して、創価学会を破門にまで至らしめ、今は「ニセ本尊」を作って配布する大謗法を犯しています。
 したがって現在の創価学会は、草創期以来の日蓮正宗の信徒団体ではなく、ただ単なる新興宗教になり下がっていますから、大聖人の仏法を広宣流布する団体でもなく、まして「賢王」や「地涌の菩薩の集い」でもないのです。

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 95 「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり」(有師化儀抄・富要 1−64頁)

 〔御文証の解釈〕
 仏の御意を信ずれば、仏の御意がその信ずる心に流れ通いますから、信も血脈も法水も同じ意味となります。信心が正しければ信心上の筋目はすべて正しくなります。

 〔創価学会の解釈〕
○御本尊を強盛に信心で信ずるのが「信心の血脈」であり、これ以外の血脈を求めてはいけない。「法体の血脈」などというのは後世に作られた言葉にすぎない。(聖教新聞 H五・九・一二 取意)
○大聖人御所持の法体である妙法は、御本尊への信心・唱題によってのみ受け継がれるのであり、この「信心の血脈」以外に法主だけに伝わる「法体の血脈」などない。(同)
○「信心」こそ肝要であり、「血脈」と言っても「信心」以外の何物でもない。(創価新報 H五・九・一五 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 創価学会の解釈は基本的に誤っています。それは「血脈」「法水」という、本来(ほんらい)御本尊に具わる法義と、凡夫の「信心」とを混同しているからです。そして教義の根本となる法体の血脈を否定しているのです。
 「法体の血脈」と「信心の血脈」という血脈の二義からみれば、この御文証は信心の血脈について説かれています。日達上人は、昭和五十三年七月に
 「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は、一代聖教大意に、『此の経は相伝にあらざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資(しし)相承(そうじょう)故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります」(達全 2−5−592頁)
と仰せられています。
 「法体の血脈」と「信心の血脈」の総別の二義の立て分けをよく知らなければなりません。

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 96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1−176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
@折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
A当山の教義を守ること
B仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
 「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

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 97 「信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ」 (有師化儀抄註解・富要 1−176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本尊を信ずることによって御本仏から我が身に法水を受けることができる。その法水は御本仏(御本尊)から信ずる者すべてに流れ通うのである。

 〔創価学会の解釈〕
○我々は、代々の法主から御本尊の「法水」を受けてきたのではなく、あくまでも自らの「信心」によって、御本仏から直接に「法水」を受けている。
○学会には大聖人の「法水」が脈々と流れており、一大和合僧団の権能において、流布(るふ)される本尊には御本仏の「仏力」「法力」が具わる。(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 創価学会の「法水」観は、日蓮正宗の教義ではなく大謗法です。なぜなら「血脈」と同義に用いられている「法水」の意味を、ここでも唯授一人血脈相承の「法水」と、信心あるものすべてに流れる「法水」とを混同させて、法体相承たる唯授一人血脈相承の法水をないがしろにしているからです。
 この御文の後に、
 「仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり(中略)不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗(アラ)凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり」(富要 1−176頁)
と仰せられ、法水を受くべき信心とは、宗祖日蓮大聖人・日興上人と伝えられる法体相承の大御本尊が根本となると説かれています。
 かつて池田大作氏は
 「御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見から見ればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶(しゃびょう)の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八−二二八頁)
と指導していました。
 しかし今日の創価学会は、本門戒壇の大御本尊から離れ、血脈付法の御法主上人を誹謗する大謗法団体となっており、永久に御本仏日蓮大聖人の法水が流れることはないのです。

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 98 「法の本尊を証得(しょうとく)して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。『其の人所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕すなり。当(まさ)に知るべし。並びに題目の力用(りきゆう)に由るなり」(当体義抄文段・富要 4−400頁)

 〔御文証の解釈〕
 本門の本尊を無二に信じて南無妙法蓮華経と唱えるとき、我が身の仏性が本門戒壇の大御本尊と一体不二であることを証得するのです。
 これを「寂光当体の妙理を顕わす」ともいい、自分が住んでいるこの国土が常寂光土であり、この常寂光土はまた我が身と一体不二であることを覚知するのです。
 この戒壇の大御本尊と一体不二であり、常寂光の当体であると覚知できるのは唱題の功徳なのです。

 〔創価学会の解釈〕
○一切衆生の成仏を説かれた大聖人の仏法では、法主に限らず、全ての門下僧俗が「題目の力用」によって「法体の血脈」を受けられるのであり、「法体」である「本尊」は法主だけの専有物ではなく、信をもって求める万人に開かれたもので、法主だけが御本尊の権能を独占する根拠はどこにもない。(聖教新聞 H五・九・八 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この『当体義抄文段』の御文は本門戒壇の大御本尊を信じて唱題する「信心の血脈」の功徳の相が述べられるのであって、「全ての門下僧俗が『題目の力用』によって『法体の血脈』を受けられる」文証などではありません。
 『法華取要抄文段』には
 「当に知るべし蓮祖の門弟是れ無作(むさ)三身なりといえどもなお是れ因分にして究(く)竟(きょう)果分の無作三身にあらず」(富要 4−380頁)
と、明確に果分の仏と因分の衆生の区別を示されています。「法の本尊」こそ信仰唱題の根本たる本門の本尊です。
 本門の本尊が三大秘法総在の一大秘法であり、本門の題目も、本門の戒壇も本門の本尊に具(そな)わるのです。
 本門の本尊を離れて、題目だけが存するのではありません。
 「題目の力用」とは唯授一人の法体相承によって伝えられる大御本尊を信じて唱える題目の功徳です。もし「題目の力用」によって「法体の血脈」が受けられるならば、身延日蓮宗徒の唱える題目にも「法体の血脈」が流れることになります。
 これは明らかな邪義です。
 また、「法主だけが、御本尊の権能を独占する根拠はどこにもない」といっていますが、戒壇の大御本尊と御本尊の権能が、唯授一人の血脈相承(金口(こんく)相承)として代々の御法主上人に相承されることは七百年来不変の定めであり、今になって創価学会が非難したところで無駄なことです。
 改革同盟なる者たちのいい分(ぶん)は、本来立て分けて論ずべき「題目の力用」と「一閻浮提総与」と「御法主上人の権能」を混同した、愚迷の論というほかありません。

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 99 「仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異ならず」(観心本尊抄文段・富要 4−236頁)

 〔御文証の通釈〕
 末法の本因妙の教主の己心(仏心)は妙法五字の本尊であり、我ら衆生の仏性も妙法五字の本尊です。衆生の心と仏の心は異なっているようであるが、妙法五字という点では異なりません。

 〔創価学会の解釈〕
○大聖人の御本尊は、信心の対境となる本尊であるだけでなく、本尊を信じて南無 妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。この二つの次元が揃(そろ)って初めて大聖人の御本尊義が完結する。(聖教新聞 H五・九・一八 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この『観心本尊抄文段』の文は、本尊段ではなく観心の意義を明かされたところのものです。
 妙法五字の御本尊という場合、総別の二面から見なければなりません。すなわち、総じて平等という面からいえば衆生の己心と仏心は同一ですが、別して差別の面から見れば、仏心は能開、己心は所開という厳然たる差別があります。『曽谷殿御返事』に「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪(りん)廻(ね)生(しょう)死(じ)のもとゐたらん」(新編 1039頁)と仰せになっています。
 学会でいう「本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具する」というこの「本尊」とはどの御本尊を指していっているのでしょうか。まさか凡夫の心に生じた戒壇の大御本尊というわけでもないでしょう。
 また、衆生の信心がなければ大聖人の本尊義が完結しない≠ニは、いったい何宗の教義でしょうか。これでは大聖人の仏法が未完成だということになります。
 本門戒壇の大御本尊は衆生の信謗(しんぼう)と関係なく、弘安二年に完璧(かんぺき)に確立されています。大聖人に対して衆生の信心がそろった時に完結するのは、衆生の功徳利益であって、御本尊や御本仏の威徳(いとく)ではありません。
 更にいえば創価学会発行の「ニセ本尊」は、いくら会員が唱題しても「功徳ある本尊」に完結することは絶対にないのです。

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 100 「此れを以て考えますと将来の歴史家に立宗七百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通(るつう)広布の時代と定義するであろうと思われます(中略)七百年の歴史は一に広宣流布を待望しつつ堅く護持してきた時代と申すべきでありましょう。しかし末法に入って千年のうち、はやくも九百年は過ぎました。もとより末法は千年に区切ることはありませんがともかく千年の終りに近づいて開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯ならないものがあると思います」(淳全 1620頁)

 〔創価学会の解釈〕
 「法体の折伏」「化儀の折伏」からいえば、宗門僧侶の使命は「法体の折伏」という「折伏の上の摂受(しょうじゅ)」にあったといえる。事実、宗門七百年の歴史を振り返ると、広布の時に備え、どうにか大御本尊を護持してきた「折伏の上の摂受の時代」であったと言わざるを得ない。しかしながら、「賢王(けんのう)」の団体・創価学会の出現によって情勢は一転し待望の「化儀の折伏」「折伏の上の折伏」の時代に突入した。ここに、一人、絶対者たる法主が御本尊の大権を所有し、教団を統率していた草創の「護持の時代」は終わりを告げ、いよいよ「一閻浮提総与」との大御本尊の意義にふさわしく、広宣流布の和合僧団・創価学会が御本尊を護持し、流通していく「時」を迎えた。(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この第六十五世日淳上人のお言葉は、昭和三十一年のものです。
 このころの創価学会は、時の御法主上人の御指南のもと、戸田会長を中心に、正しく日蓮大聖人の仏法を弘(ぐ)教(きょう)していました。
 ですから、前のような日淳上人の賛辞があったのです。
 まして、第二次大戦以前の我が国の宗教政策にあっては、布教の自由はないに等しい状況であったのです。
 その後、新憲法によって信教の自由が許され、戦後の荒廃(こうはい)した時代にあって、学会は、日蓮正宗の信徒の団体として、めざましい発展を遂(と)げました。
 しかしながら、今日の学会は、その本来の使命を忘れた邪悪な教団となっており、日蓮大聖人の仏法を広宣流布する資格はなくなっています。
 かつて、池田大作氏は学会の本来の使命について、次のように述べています。
 「この日蓮正宗の信徒として、御法主日顕上人猊下の御説法を拝しつつ、永遠にわたる人類平和のために、正法を基調として、個人の幸福と世界の平和を結ぶ文化、平和の基盤を営々と築いていくところに創価学会の使命がある」(広布と人生を語る 一−一四六頁)、
 「日蓮正宗の、根本中の根本は、ご存じのとおり、本門戒壇の大御本尊であられる。その大御本尊と日蓮大聖人以来の血脈を代々受け継がれる御法主上人がおいでになり、七百年にわたる伝統法義が厳然とある。この正宗の根本軌道に則った信心こそが、正しき信心であり、無量の功徳があるわけである。みずからの信心の濁りや驕慢(きょうまん)から、その根本軌道を失ってはならない」(広布と人生を語る 六−四一頁)
 このように池田氏は、真の広宣流布は本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人を抜きにしてはありえないといっていたのですが、我が身の慢心を指摘されるや、今日のように学会を大謗法集団にしてしまったのです。
 したがって今日の学会には、大聖人の仏法を弘める資格もなくなり、いかに「いよいよ『一閻浮提総与』との大御本尊の意義にふさわしく、広宣流布の和合僧団・創価学会が御本尊を護持し、流布していく『時』を迎えた」と力んでみても、所詮(しょせん)、彼らの思い込み、一人よがりの戯言(たわごと)でしかありません。
 「一閻浮提総与の御本尊」とは、「世界中の一切衆生の即身成仏のために、建立された根本の御本尊」との意味であり、この大御本尊は法体相承として歴代の御法主上人に相伝されているのです。それを「われわれに与えられた御本尊」と曲解するのは、?慢謗法以外の何ものでもありません。


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