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   【苦悩を解決する道は妙法のみ】
 
四苦八苦について
 
     
   この度、もったいなくも御法主日如上人猊下の御慈命を賜り、二月二十六日付けをもちまして、当山第三代住職に就任させていただきました。
 これよりは、浅学非才の身ではございますが、初代石橋頂道御尊師、先代岩切護道御尊師の御功績を傷つけることなく、御法主上人税下の御指南を根本とし、慈本寺の発展と御信徒皆様の信行倍増のため、住職としての任を全うして参る覚悟でございます。
 そして、まずは、目前に迫った「東日本決起大会」をはじめ「平成二十一年の御命題達成」に向かって、ご信徒の皆様とともに力を合わせて誠心誠意、ご奉公の誠を尽くしてまいる所存でございます。
 二月八日、慈本寺住職の内命を御法主上人より賜り、本山より下山する際、宗務院へご挨拶に行きましたが、その折に教学部の方々から、「慈本寺さんでは毎月『妙彩』という機関誌を発行している。あそこは青年部がしっかりしていて頼もしい講だよ。」また「御住職の岩切護道師は、よく勉強されている。君も頑張りなさいよ。」と激励されました。
 また、座替り式で前住職 岩切護道御尊師は、「この御住職が指導される事と、私が前に申し上げた事ともし相違することがありましたならば、それは私が間違っている事であって、次の住職の申される事が全部正しいのです。だから今度の住職の申される事を全て受けきって、素晴らしい法華講の信心をいよいよ輝かせていって頂きたいと思います。」と申されました。
 私はこのお言葉を、只々頭を垂れ、感涙に咽びながらお聞き致しました。全ての面において、私如きは岩切御尊師の足元にも及びませんが、しっかりと御意志を継いで、寺檀和合、寺運興隆に精一杯のご奉公をさせて頂こうとこの時、改めて固くお誓いした次第であります。


 
私は今年で41歳になり、ようやく気付いてきたことがあります。
 それは、非常に当たり前すぎるほど当たり前な事なのですが、自分が1つ年を重ねるということは、自分にとって大切な方も同じように年をとる。もっと言えば、年毎に御師匠様や両親、恩義を受けた方など本当に自分の大切な方が老い、弱っていくということです。
 今まで、自分のことばかりで法務に子育てにとゆとりがなく、ふと周囲を見回したときに、今更ながらこの事を痛感し愕然と致しました。
 人には、生きている限り必ず苦悩がつきまといます。
 そもそも、この「苦悩」とはどういうことなのでしょうか?「苦しい」とはどういうことなのでしょう。何がどうなったら苦しいと感じるのでしょうか?
 もともと、「苦」という言葉は、インドの言葉ではDUHKHA(ドゥッカ)と言い、中国でそのDUHKHAは「苦」という漢字に翻訳されました。もともとの意味は、「思い通りにならない」という事です。つまり、「苦しみ」というのは、「自分の思い通りにならない」という事なのです。
 有史以来、幾百億の人間が苦悩と闘ってきました。歴史は此の苦悩の克服についての記録であります。古来の聖人賢人と言われる人は、皆この苦悩から解放される道を考えて人類の幸福を願ってきました。
 此れ等の聖者の中で、最も深く全ての苦悩を洞察して、真の幸福を得る道を自ら実践され、それを衆生に教示された第一の聖者が、仏様であります。
 それ故に、仏は覚者・世尊・大慈悲尊とも呼ばれ、また慈父・悲母・主師親等と言うのです。
 人々の決して避けることの出来ない苦悩を、釈尊は四苦八苦として説かれています。
 即ち生、老、病、死の四苦と愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)との四苦で、合わせて八苦であります。此の中に一切の苦悩が含まれます。
 一般に四苦八苦と言えば、とても苦労している様を表していますが、仏法ではもっと深い意味が存します。
 
●生...母の胎より生れ出る時の苦しみは普通の凡人では全く記憶にありませんが、仏典ではこれもまた苦であると説かれています。
 また、生と言えば母親の出産時の苦しみの事と勘違いする方もいますが、そうではなく、この世に生まれ出でた時点で、苦しみに会うという意味が含まれています。
 また、生きていく以上は、動物でも植物でもそれらの命の恩恵で生きていく訳ですから、知らず知らずのうちに、罪障を積んでしまうという事です。
●老...老い、衰える苦しみです。長く生きていると、年齢とともに身体は衰えてきます。体の中で、一番最初に老いるのは目だと一般に言われています。
 髪は白くなり、抜け落ちてハゲます。歯も抜け、顔や体は皺だらけになってきます。そして、腰は曲がり、手足も自由に動かなくなります。もちろん、人によって老化の目立たない人もいるわけですが、誰でもやがては衰えてきます。早いか遅いかの違いです。更には、思い通りに体が動かなくなってしまいます。これが老の「年をとってしまうことの苦しみ・老いる苦しみ」という訳です。
●病...病に侵される苦しみ。人間は必ず病気をします。例え若くても、細菌やウイルスに侵される場合もあります。病院で輸血しただけで、エイズや肝炎になってしまう場合もあります。しかも様々な病気があって、治るものもあれば、現代医学をもってしても治療不可能な病もあります。
 大聖人様は61歳で御入滅されましたが、晩年は日に日に衰弱され、弟子の薦めもあって、9年間一歩も出られなかった身延を後に、常陸(ひたち)の湯へ湯治に出かけられました。
 大聖人様は、仏様でありながら、人は病気からは逃れられないという事を、身をもって我々にお示し下さいました。
●死(し)...死の苦しみ。他の生き物の命を奪い続け維持してきた自分の命も、いつかは終りがきます。必ず死ぬ時が来る訳です。どんな手段を使っても、どれだけ信心があっても、どんなに良い人でも、絶対に死ぬことからは逃れられません。永遠に生きることは不可能なのです。私たちはどうしても「死ぬ」という現実から目を背けてしまいます。

 しかし、死というのは、次の生まれ変わった後の人生のために必要な過程ですから、私達は死というものをただ苦しいと思うだけでなく、もっと前向きに考えていく必要があります。
 仏教は「生まれる・生きる、老いる、病む、死ぬ」という苦しみを乗り越える為の教えですから、ただ苦しいと漏らしているだけではいけません。

 先に挙げた四苦は、主に体に関わる苦しみを示したものです。これに対して八苦は、精神的・心に関する苦しみを言います。八苦といっても八個ある訳ではなく、先ほど示した「生老病死」の四つに、精神的な苦しみを四つ足すと全部で八苦になるので後半部分を八苦と言います。
即ち、
●愛別離苦...愛する人と別れる苦しみ。愛する人と永遠にいられるわけではなく、理由は様々であっても、必ず別れる時が来るという事です。
●怨憎会苦...嫌いな相手、憎んでいる人と会う苦しみです。普通に社会生活を営んでいれば、避けては通れない事柄です。
●求不得苦...欲しいものが自由に得られない苦しみ。財産、地位、名誉、知識、技能、友人、恋人など挙げればキリがありません。世の中欲しいものだらけなのに手に入るものは極わずかです。この様に、いくら欲しいと求めても手に入らず苦しむことを指します。
●五陰盛苦...五陰《色・受・想・行・識》が盛んになり苦しむこと。人間には肉体があり、感情があり、心があり、理性・考える力もあります。結局、そういうものがあるのは有り難いが、それが故に苦しむという事にもなるのです。
 体が無ければ歳もとりませんし、病気にもなりません。心が無ければ苦しいとも感じません。感情が無ければ、誰かを憎んだり愛したりして悩むこともありません。私たちの持つそういう心や体が、色々な執着や悩み苦しみを作り出していること。この世に存在していること自体の苦しみ、それを五陰盛苦といいます。

 我々が抱えている全ての悩みや苦しみは、今まで述べてきた「四苦八苦」に全て当てはまります。自分の抱えている悩みや苦しみがどんなに複雑に見えても、よくよくその原因を考えてみれば、絶対にこの八つのどれかに当てはまります。
 人々は、煩悩(欲望)によって業をつくり、その業によって四苦八苦等の様々な苦しみを感じ、その生死の苦しみは輪廻して永遠に続くのです。 まさに一人の人間の心に抱えた苦悩は無限であるという外はないのであります。
 しかし、仏教といっても様々であります。念仏宗では私たちの娑婆世界を穢土(えど)として嫌い、浄土の世界を願います。
 しかるにこの娑婆世界は「忍土」と言われる様に苦しみを耐え忍ぶ世界なのです。苦しいからといって現世を嫌ってしまえば、人生を一生懸命生きていく前向きな姿勢が無くなり、自殺願望を持つ場合もあります。
 法華経では、諸法実相の義により生死の苦しみの九界と、仏界の互具互融を明かし、一念三千の妙用によって煩悩がそのまま悟りの当体と開かれることを説かれました。
 天台は、この法華経の意義から『法華玄義』で、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と説き、生死と涅槃という、相反する境界は、仏の智慧(悟り)から見るならば、本来そのままが共に一念三千であり、一体不二の関係にあることを説いたのです。
 要するにこれらの様々な苦悩について、私たちは正しく本源的な解決をすることが真の安楽に至る道なのであります。忍ぶべきは忍び、行うべきは行い、あるいは願望成就に努力し、苦悩を解決する唯一にして絶対の道は、我々自身が妙法蓮華経の不思議な境地に徹しきる外にはありません。
 即ちその苦悩の問題に真正面から対処し、それを唱題行で浄化しきるところにその根本的解決があり、まことの生死即涅槃の体験が得られるのです。
 大聖人様は『四条金吾殿御返事』に、
「苦おば苦とさとり、楽おば楽とひらき、苦楽共におもひ合わせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(新編九九一頁)
と仰せです。
 また『当体義鈔』に、
「日蓮が一門は正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てて正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり」(新編七〇一頁)
と。
 正直に邪義を捨てて大聖人様の大法の有り難さに歓喜し、正直に深い信心・唱題をもって帰命するときには、四苦八苦などの生死の苦悩を、そのまま本有の生死と浄化することができます。そして忍ぶべきは忍び、行うべきは行い、あるいは願業の成就に努力をする等の、妙法蓮華経の不思議な境界が顕れてきます。そこに、あらゆる一切の苦悩を解決する道があるのです。

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